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ジャン=ポール・ジョー監督
『セヴァンの地球のなおし方』

絶望のしかた

文=

updated 06.29.2011

監督ジャン=ポール・ジョーの話を聞いたのはもう昨年九月のことになるので、もちろん震災のはるか以前のことになる。

その前に、遅ればせながら前作『未来の食卓』を見た。食料としての質ではなく経済論理のために、生育から収穫そして加工までの過程で徹底的に汚染されたものを口にし続ける日常生活から脱するためには、先進工業国を、というよりもこの世界全体を覆い、もはやその外側を思い描くことすら困難なシステム=グローバル資本主義から我と我が身を引き剥がさなければならないのであるという訴えそのものはまったく、非の打ち所無く正しいと感じるのだが、それ故に、映画の中に登場するどこまでも正しい人たちを眺めていると、理不尽な警戒心が起動してしまうというのも事実であった。

つまり、『未来の食卓』に登場する南仏の小さな村では、学校給食を完全にオーガニック化しようという試みが行われているというお話なのだが、そのコミュニティ自体が宗教セクトのように見えてしまってしかたがなかったのである。

インタビューに応えるジャン=ポール・ジョー監督

そこで、監督への質問は、ほぼそのあたりからはじめたのであった。すなわち、「訴えの正しいことはわかりますが、あまり狂信的にやると、かえって人びとを遠ざけませんか?」というような。

監督は、微かにニヤッとしたかもしれない。お馴染みの言葉がまた出てきたという表情だったように思う。

「今、(大量生産される食物に起因する様々な疾病により)9.11で亡くなったのと同じ人数が二日ごとに死んでいる計算になるのですよ。そういう事実を前にして、狂信的過ぎるということがありますか?」

もちろん、3.11から三ヶ月以上を過ぎてもなお悪化の一途を辿っている原発状況の中を生きる現時点では、その答えの明白さに異論はない。

前作『未来の食卓』は、地球上を覆うシステムに棹さす少数の人びとによる実践の試みを記録した、いわば発すべきメッセージのために完全に奉仕するドキュメンタリー映画であった。それに対して今作は、かつて12才の少女であった頃に、地球環境サミットにおいて「大人たち」を告発し、破壊をやめるよう懇願したひとりの女性を中心的な語り部に据えながら、「人類自身が人類を破壊している」という認識をベースにしつつも、希望だけでも絶望だけでもない光景を描き出す映像エッセイの趣を持つ。我々を取り巻く様々な害悪や危険を指し示しながら、登場する善意の人びとの姿が、希望を失わせない。その代表的な人物が、前述の女性セヴァン・スズキという存在なのである。成長し子を宿した彼女は、地球を救いたいわけではなく、ただ自分たちの生活を守りたいだけなのだ、という言葉を口にする。利己的な動機に過ぎないのだ、と。監督もまた、自らを蝕んだ結腸癌を契機として前作を撮り始めており、起点は同じところにある。

ここには、絶望してみせることや楽観的情熱だけに衝き動かされることがあまりに安易な選択肢となってしまった世界において、ある種の、巧みな絶望のしかたが提示されているように思えてならない。あらゆるレベルでのダメさを露呈し続けているこの列島に生きる我々もまた、今や同様の起点を懐胎しているのであるから、まずは、そうした絶望のしかたを体得しなければならない。

□YouTube予告編

『セヴァンの地球のなおし方』
東京都写真美術館ホール、渋谷アップリンクほか全国順次公開中!

□『セヴァンの地球のなおし方』オフィシャルサイト
http://www.uplink.co.jp/severn/

初出

2011.06.29 18:00 | FILMS