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SVが選ぶ「クリスマス映画三昧!」Vol.3

ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス監督
『ルビー・スパークス』

欲望と欲望からの逸脱とフランケンシュタイン

文=

updated 12.14.2012

10代最後の年に書いた小説がベストセラーとなり、たちまち天才作家に祭り上げられるが、以降10年間一作も書き上げられない作家(=ポール・ダノ)。物心ついて以来抱えてきた欲望を小説の形に結実させたところ、図らずも大勢の他人に共有されることでそれを収奪されてしまい、空っぽの自我だけが残ってしまったのだということは想像できる。もし処女作が誰にも認められず、ひっそり忘れられていさえすれば、欲望を喪った空虚な存在として10年間もうつろな日々を過ごすこともなかったのではないかと。

やがて、その空虚を抱えきれないギリギリの淵にまで至った作家は、突如、ひとりの女性(ゾーイ・カザン)の夢を見始める。子どもじみたと言ってもよい輝きを全身に帯びながら登場するその彼女は、もちろんようやく素朴な形をとることのできた彼自身の欲望の姿そのものに他ならない。つまり、彼は小説を書き始める。そしてその女性を、ルビー・スパークスと名付ける。

するとその小説のヒロインは、現実の存在となって小説家の目の前に現れる。本人は、よもや自分が想像の産物=体現者であるとは夢にも疑っていない。あるいは、目の前の男の欲望そのものであるなどとは。

 

ここからは連関し合ったいくつものことが頭に浮かぶ。

まずひとつは、そもそも誰もが誰かとの関係の中においては他人の欲望の体現者にすぎないということ。他人によって投影される欲望の形の集積が、「本当の自分」というやつに過ぎない。

もうひとつは、ルビー・スパークスとはすなわち『ブレードランナー』におけるレプリカントであり、フランケンシュタイン博士の怪物であるということ。被創造物は、創造主の欲望を体現しているがために彼を裏切る。

日常の次元に引き下ろせば、「束縛」やら「DV」やらといった問題とも重なる。関係のある一時点において完璧に欲望を体現していた存在が、それを逸脱し始める。その逸脱を、欲望の枠内に押し込めようするすべての力をDVと呼んでしまうこともできるだろう。実際、この映画の終盤において小説家が陥るのはこの状態そのものでもある。最終的には、コントロールのためのコントロール、逸脱を抑圧するための逸脱という具合に欲望は焦点を失い、再び喪われることになる。

 

考えてみるとそもそも欲望というものは、恋愛においては特に、欲望の体現者によってあたかもそれ以前から存在していたかのように生成され、その体現者が微妙に欲望から逸脱することでさらに強化・再生産されるという循環によって保たれるものではないだろうか。要するに逸脱というものが決定的に重要なのだが、欲望を強化・再生産する逸脱をどの程度まで許容できるのかということが、欲望者自身の強度ということにもなるだろう。欲望者の強度と逸脱の程度との繊細なバランスによって、すべては成立しているのだ。

 

そんなことを非常に手際よく、自意識や自己愛による偏りがほとんどないうえに説明臭さを感じさせることもなく、甘酸っぱさすら失うことなくひとつのおとぎ話に仕上げたのが、この映画の脚本である。しかも、ヒロインを演じているゾーイ・カザン自身のオリジナル作品だという。

長編デビュー作だった『リトル・ミス・サンシャイン』では上質な社会風刺的コメディーを撮り上げたふたりの監督たちが、この作品を二作目に選択したのは聡明というほかない。企画としての問題設定の強さに助けられることがなくても、娯楽としての人間ドラマをきっちり撮り上げられることが証明された。次回作には、どんなものを選んでも問題ないだろう。

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12月15日(土)よりシネクイント他にて全国順次ロードショー
(C) 2012Twentieth Century Fox

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スタジオ・ボイス特別号「MUSIC in CAR」>>新連載「OUR “MUSIC in CAR”」。第2回は、池袋のアムラックス東京で開催された痛車の展示イベント「ぷち痛ふぇすた」のリポートをお届けします!

初出

2012.12.14 14:00 | FILMS