CONTAGION

スティーブン・ソダーバーグ監督
『コンテイジョン』

小さな跳躍

文=

updated 11.09.2011

震災から二ヶ月くらい経った頃、ようやく手の空いた友人と会い、待ちかねていた質問を浴びせたことを思い出した。その友人というのは原子力安全・保安院に勤めていたので、当然のことながら、原発状況を巡る情報というのはいったいどこまでが操作されていて、そこにどんな意図が隠されているのか、ということを聞き出すことが主眼だった。こちらも専門家ではないし、様々な次元の噂話を総合しつつ、そこへ自らの想像も加えたものをベースに問うという、はなはだ非効率的な会話にはなっていたが、友人の口をついて出てきた半ばやけくその愚痴にまみれた話の輪郭を信じる限り、要するにこういうことだったらしい。
「巨大な陰謀を張り巡らせているような人間はいない。表面に現れている混乱状況は、ひとえに無能がゆえ。そしてその無能さは、危機的状況にあっても保身を優先する種類の人間たちによって支えられている」。要するに、「日本は単にダメ」ということなのだった。「なーんだやっぱりか」という気分にもさせられるが、結局のところ人は、日常業務の延長上でしか危機的状況に対応できないのだという事実が証明されただけとも言える。

一方、この映画に登場する多くの登場人物たちの中でも中心的な位置を占める感染症の専門家たちにとっては、いかにして通常業務を遂行し続けるのかというところに彼らの存在意義がかかっている。危険を冒して感染の中心地に乗り込む者もいるし、研究室内で孤独にワクチン精製の実験を繰り返している者もいる。

それに対して外部の陰謀論者は、「権力者はワクチンを秘匿している」と訴え、人びとの恐怖を煽る。恐怖に絶望した人びとは、掠奪行為に走る。というお馴染みの悪循環が始まる。かくしてこの作品は、致死率の極めて高い感染症の爆発的発生という状況からどのような事態が生まれ、連鎖してゆくのかということを、科学実験のような冷静さでただひたすら見せて行く。

だが、映画全体が神の視点によって統合されているわけではない。むしろ、それぞれの状況の渦中にある登場人物に寄り添った視点が、そのまま集積されてゆく。だから、いつまでも先は見えない。その先の見えなさが、当然のことながらこの映画を牽引するサスペンスとなっている。

では、ひたすら絶望に向かって突き進むだけの映画なのかと言えばそうではない。最終的には救いが用意されている。それが何かと言えば、娯楽映画としては極めて真っ当な、ある少数の人びとの勇気ということになるのだ。勇気をもって行われる、生命の危険を賭した、極めて小さく見えても決定的な跳躍によって、人類は救われる。ちょうど、フィリップ・K・ディックの小説に登場する卑小な人間たちが、最後に見せる尊厳のありかたのように。そして、それら小さな跳躍が集積されてゆく。

そういうわけで、優れた感染ものには付きものとは言え、映画館や帰りの公共交通機関の中で誰かが咳き込んでいる音には過敏にさせられるだろうが、ある程度さわやかな気持ちで放射能の空の下に出ることができるのである。上述の友人の話に登場する人間たちの中に、決定的に欠けていたものの正体もまた、ハッキリさせられたわけで。

『コンテイジョン』
11月12日(土)新宿ピカデリー 他 全国ロードショー
配給:ワーナー・ブラザース映画

□ オフィシャルサイト
www.contagion.jp
http://www.facebook.com/contagionjp

公開情報

© 2011 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.



初出

2011.11.09 12:00 | FILMS