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ダニー・ボイル監督
『127時間』

自然そのものに近づく

文=

updated 06.15.2011

タイトル通り127時間、すなわちほぼ6日間にわたって、砂漠にある岩盤の裂け目に閉じ込められた挙げ句、誰の手も借りずたったひとりで生還を遂げたひとりの男の経験を長編劇映画化したのがこの作品である。

もちろん、手練手管を山ほど身につけたテクニシャン、ダニー・ボイルのことであるから、極度に狭い空間に閉じ込められっぱなしの主人公に寄り添った物語だけで、退屈させられないということがあるのだろうか、という心配をする必要はない。実際、自然を熟知し高度な身体能力を身につけた主人公が砂漠を疾走する爽快な映像が連なり、もう遭難しなくても良いじゃないかと考え始めた頃にふとした弾みで右手を岩に挟まれ、立ち姿勢のまま身動きが取れなくなるのだが、そこから先、ラストの避けられない形での解放に至るまでの間、「アクション」が止むことはない。

こうした状況の場合、もっとも容易なのは、主人公を捜索する人びとの物語を同時に語るという方法なのだろうが、この話の場合、主人公を発見した者はおろか、捜索した者がひとりもいないので、それを選択するわけにはいかない。普通に考えれば、アート映画にするつもりでなければ、この段階で劇映画化が断念されるだろう。主人公の格闘と努力を描写し、過去を回想し、遠のく意識の中で現出する幻覚による抽象世界を再現するという、三つの要素だけで構成しなければいけないのだから。しかも、主人公の行う努力といっても、本人の必死さに比して目に見える行動は当然のことながら極小にならざるを得ない。いちばん避けたいの回想と幻覚に逃げすぎることで、それをやれば退屈になる。

果たしてダニー・ボイルが行ったのは、その三つの要素を過剰なまでに徹底し、絶妙なバランスとリズム感で構成するという、もっともシンプルかつ困難な試みであった。結果、それぞれの内側、そしてそれぞれの間にアクションが生まれ、当人の語るとおり「アクション映画」が成立することになったのである。その徹底ぶりは、撮影監督をふたり雇用することで、映像トーンの差異を際立たせるというシステムの選択にまで及んでいる。

さて、ここで語られるのは、人間の持ついじましいまでの生命への固執である。それは、いじましさにまで到達するが故に崇高さを帯びる。ただひたすら、他の誰の命とも断絶された中で、己の生を希求する。命を脅かされていることには、何の意味もない。誰のせいでもない。神のごとき超越的存在も無関係である。その時彼は、自らの命を刻一刻と削り取ってゆく自然そのものの姿に、限りなく近づいていることだろう。そのような生の充溢に羨望を感じない者がいるだろうか。
『127時間』
6月18日(土)TOHOシネマズシャンテ、シネクイント他全国ロードショー

□『127時間』オフィシャルサイト
http://127movie.jp/

公開情報

©2010 TWENTIETH CENTURY FOX



初出

2011.06.15 14:00 | FILMS