JENNIFER LAWRENCE and BRADLEY COOPER star in SILVER LININGS PLAYBOOK

デイヴィッド・O・ラッセル監督
『世界にひとつのプレイブック』

さりげない奇跡

文=

updated 02.21.2013

専門的にはどうなのかわからないが、「双極性障害」とされるこの映画の主人公(ブラッドリー・クーパー)の姿を見ていると、どうしても「ADHD(注意欠陥・多動性障害)」とか「アスペルガー症候群」といった言葉が思い浮かぶ。というか、『ハッカビーズ』(04)の時に来日した監督自身の落ち着きのない様子が、すぐに思い出された。インタヴュアーの質問そっちのけで持参のスナック菓子をみなに勧めたり、立ち会いの編集者を唐突に指さして「彼はなに?」と気にしたり、とにかく話の腰を折りまくる。基本的には、「インタヴュアーの組み立てた話の流れなんかに乗るもんか」という自意識をだだ漏れにする“才気走ったわがままアーティスト”の枠組みに入ってしまうような振る舞いなわけだが、「ベン・スティラーは良いけど、同じことしかやらないから」とか、「『ナポレオン・ダイナマイト』(邦題:バス男)見た? 最高だよ」などと話しかけ、その場にいる者全員に気を遣っているようでもあった。“気弱な暴君”そのもののヴィンセント・ギャロとはまったく違うタイプだが、でもまあ少なくともその時には「もうこの男のインタヴューはイイや」と思わされたものだった。

もちろん『ハッカビーズ』そのものが「話の流れなんかに乗るものか」という自意識だけで出来たような作品で、そのメチャクチャな逸脱ぶりと要素の過剰な詰め込みなどによる映画そのものの持つ違和感が、青春映画の主人公が抱える違和感と二重写しになっていて、当時は大好きだった。でも先日ふと思い立ってDVDを見直してみると、チャーミングではあるものの、「今こいつにつきあうのはシンドイなあ」という気分になった。だからこそ次作『ファイター』までに6年の時間が空いたということだろうし、その『ファイター』があのようにして、主人公ふたりの物語を最善のかたちで語ることに集中した素晴らしく風通しの良い作品になったという事実が、我々にとってうれしい驚きだったのだ。

その少し前に、ダーレン・アロノフスキーが“作家主義的美意識”の檻を抜け出て、『レスラー』(08)によって見事な“アメリカ映画”の作り手へと脱皮したことが記憶に新しかったが、同じ道を歩んでいるようでいて、ラッセルの場合はもう少し戦略的であるように感じた。というのも、『ハッカビーズ』においては映画のフォルムと内容が共に「ADHD的」だったのに対して、『ファイター』ではその要素が主人公の兄(クリスチャン・ベール)というキャラクターに結実することで、物語を動かす核としてキッチリと機能していたのだから。つまり単に自意識の枠組みを破壊しそこから抜け出るのではなく、それを映画の中で機能させるということに辿り着いたのではないか。そしていよいよ今作では、主人公そのものが「ADHD的」な人間となった(プレス資料によると、今作の方が先に企画されていたらしい。この映画を作るためには『ファイター』という“練習”が必要だったのだとすると、さらにわかりやすい)。

「ADHD的」あるいは「アスペルガー的」などと安易に書き付けてきたが、要するに「落ち着きがなくて、自分勝手で、空気が読めなくて、感情の起伏も激しい」というネガティヴな形容に、「でもそれは純粋さの現れのように見える」というポジティヴな形容が付加されることで「狂気すれすれで手に負えないが愛すべき」キャラクターという仕上がりになっている主人公像そのものは、そんな言葉を使わなくても、これまでに映画や小説の登場人物として幾度となく接したことのある種類の人間ではあるだろう(例えば、いちばん典型的にはJ・D・サリンジャーの小説における、シーモア・グラースの狂気と脆さが一体化し、可笑しな純粋さとして結実した姿が思い出される)。

初出

2013.02.21 10:30 | FILMS