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デイヴィッド・O・ラッセル監督
『世界にひとつのプレイブック』

さりげない奇跡

文=

updated 02.21.2013

また、主人公を育んだ家族の造形にも抜かりはない。一見精神を病んだ息子に振り回される年老いた善意の両親でありながらも、物語が展開するにつれ、父親(ロバート・デ・ニーロ)は病的なまでに賭博に入れあげ験担ぎのためには手段を選ばない自己中心野郎でありながら、息子に対しては(彼を理解しようとすることなく)押しつけがましく愛を語って見せるような男であること、そして母親はそんな夫や息子の常軌を逸した行動を前にただおろおろ見守るばかりという、絶妙な機能不全ぶりが描かれる。いや、『ファイター』における息子を踏みにじる過干渉家族は完全に機能不全であったが、ここでは機能不全ギリギリの状態であり、まだなんとかなるかもしれない状態にある(と感じさせられる)。主人公にしても同じことで、あとほんの少しのところで、「まとも」な人間になれそうという地点に、自ら望んで留まっているようにも見える。

そして相手役となるヒロイン(ジェニファー・ローレンス)は、夫を亡くした悲しみを「性的逸脱」という嗜癖に身を投じることによって糊塗した後、ようやく底をついて回復しつつあるという若い女性である。家族には「心を病んだかわいそうな子」という役割をあてがわれているために、この世界に対する呪詛の気持ちが拭えず、ことさらに攻撃的な態度にでることが多い。つまりは主人公ほどには病んでいないが、世界への違和という点では青春映画のヒロインとして感情移入のしやすいキャラクターではある。こういうふたりが出会い、協力し合いながらダンスコンテストに出場するというのだから、ごく自然と応援する気持ちにならない観客がいるだろうか! 映画もまた、素直にその気持ち寄り添う。

このようにしてラッセルは、自らの創作活動の核にあるモノを単に活かすだけではなく、それを主たる動力源とする物語を、完全に娯楽の側に留まりながら撮り上げることに成功したわけだが、その事実を前景化させることなく、ごくあたりまえのように仕上げて見せている。そのこと自体が奇跡的ではないか。

隙無く構築された作品世界は、上述のようなものを含めて様々な角度と次元から語ることができるし、「双極性障害」という側面から見れば映画のラストもまたひとまずの通過点にしか過ぎず、この後も主人公の苦しみが否応なく続くことから目を逸らすことはできないのだが、それでも明らかにひとつの試練を乗り越えることでその苦しみと向かい合うための力も強化されただろうし、この次にやってくる苦しみそのもののも、もしかしたらもう少し軽いものなのではないかということにまで思いを至らせる。

ところで蛇足ながら、ラッセル本人の息子もまた、「双極性障害」を抱えているらしい。そして、この映画にもちらりと、だが印象深い存在として登場する。もし病が事実なら、その人間をあの役に配するあたりがとてもラッセルらしいとニンマリさせられるだろう。主人公がついつい空気を読まずに吐いてしまう本音にも似ているし、その率直さがある種のセラピーとして機能するようにすら見えるのだ。

そういうわけで、この作品によってひとつの高みに到達してしまったラッセルだが、落ち着きのない彼のこと、これを撮るために生まれてきたということでもないような気がする。次回作ではどんなことをやらかすのか、期待せざるを得ない。

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『世界にひとつのプレイブック』
2013年2月22日(金)よりTOHOシネマズシャンテ、TOHOシネマズ
六本木ヒルズ、新宿武蔵野館ほか全国ロードショー
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公式サイト http://playbook.gaga.ne.jp