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パオロ・ソレンティーノ監督
『きっと ここが帰る場所』

すべて、残響

文=

updated 07.03.2012

どういうわけかザ・キュアーの『ディスインテグレーション』を聴きたくなり、そういえばカセットで聴いていたからCDは持っていなかったんだと思い出し、21周年盤を23周年目に購入したばかりのことだったからなおのこと、冒頭、ショーン・ペン演じる惚け顔の主人公の背後で鳴っている時空のハッキリしない音楽がことさらに飛び込んできて、なるほどこれはまさに残響だけで作られた映画なのだな、と了解する。

その主人公シャイアンは、まさにロバート・スミスの抜け殻のような存在で、もはや生きるためにどんな仕事もする必要のない環境の中で毎日を過ごしている。シワの浮いた中年過ぎの顔はメイクされているし、長髪もいちおうこんもりと盛られている。ヘアメイクから黒装束にいたるまでのすべては、彼なりにぶれない生き方をしているということではなく、かといって、現役時代から惰性で続けられているということでもない。むしろ、ロック・スターであった当時の残響そのものとして存在している彼にとって、それこそが身体のすべてなのである。

その姿にはもちろん、滑稽さがつきまとう。ちょうど80年代文物の多くがそうであるように。だが当然のことながらこの作品は、残響の滑稽さを楽しむ映画ではない。言ってしまえば、すべての人間がなんらかの物語の残響でしかないということになるだろうか。個々人の違いは、残響であること、すなわち内側の空虚さとどのように折り合いをつけてゆくのかということに過ぎない、と。

ジェンダーを交換したように男性的な快活さを持つシャイアンの妻(フランシス・マクドーマンド)は、残響としての夫の身体が存在することではじめて機能しているように感じられるという意味では、残響の残響ということになるのだろうし、父の訃報を契機として旅に出たシャイアンの前に登場する「ナチ・ハンター」モーデカイ(ジャド・ハーシュ)もまた、わかりやすく第二次大戦の残響そのものの人生を歩んできている。その彼から知らされたのは、ユダヤ人である父が、アウシュヴィッツで出会ったひとりのSS隊員を30年間にわたって追っていたという事実であり、つまりは彼の父もまたホロコーストの残響であったのだ。そしてシャイアンは、父の生きた残響を引き請け、自ら追跡を始めることになる。

ことほど左様に、すべての登場人物、すべての物語が、残響どうしの共鳴として展開されてゆく。そして、デイヴィッド・バーンの名前が「音楽」にクレジットされ、劇中にも自分自身として姿を現すからという理由から、この映画が音楽的なわけではない。もちろん、音楽はいつでも鳴っている。魅力的なポップチューンから、80年代ニューウェイヴのパロディー、そして現代音楽まで、うるさいくらいに鳴り続けている。実際、鳴らしすぎだろうと苛立たせられる瞬間すら訪れる。だが、音楽が鳴れば鳴るほど、あたかもその響きによって吸い出されるように、内部の空虚さというか、内部などはなから存在しないという事実が、諦観ではなく完全なる救いとして、我々の前に立ち上がり始めるのを感じるだろう。

第一印象では幼稚と感じさせられたものが、しばらく時間をおくことで、洗練からはほど遠いものの、もしかするとこれは粗く厳しい熟成のようなものだったのかもしれないと、いつのまにか考え始めさせられているのは、そのためなのだ。

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『きっと ここが帰る場所』
ヒューマントラストシネマ有楽町、シネマライズ他全国ロードショー公開中
(C) 2011 Indigo Film, Lucky Red, Medusa Film, ARP ,France 2 Cinema,
Element Pictures. All Rights reserved.

□ オフィシャルサイト
http://www.kittokoko.com/

初出

2012.07.03 08:00 | FILMS