たしかに可笑しいし面白い。価値を転倒させることで批評的な視線を我々の社会に逆照射しようという風刺意識が前面に立ちすぎているものすら少なくて、ほとんどは酒場のバカ話や中学生の妄想をそのまま端的に具現化したようなものばかりなのだから、その心意気には好感を持つばかり。
その上、ただオムニバスとして短編を並べるのではなく、企画をプロデューサーにプレゼンする頭のイカレた自称映画監督(デニス・クエイド)のお話、という器を作ってあることも良く機能している。それによって、オムニバスにありがちな、一本ごとにテンションがぶち切れるということがないのである。
しかも、本国では酷評の嵐だったのだという。実際、喉に玉袋をぶら下げた男(ヒュー・ジャックマン)の短編が完成した時点で、「ヒド過ぎる」として手を引いたスタジオがあったのだそうだ。そんなこともあり、だが大部分は大スターをキャスティングするために「出来るときに撮影する」というスタイルで制作を続けたせいで、完成するまでに合計6年もかかってしまったという。
なにしろクロエ・モレッツやエマ・ストーンはおろか、リチャード・ギアやナオミ・ワッツ、ハル・ベリーなんかも出てくる。とにかく全作品に、ある程度以上というかほぼスターと呼んでも良い連中が顔を見せている。これだけ下らない映画を作るために、ここは死活的に重要なポイントと言えるだろう。
極限までバカでお下劣な内容だからといって、それがバカでお下劣と見なされず、普通に受け入れられてしまうような社会では、当たり前のことだが、可笑しいとも面白いとも感じられるわけがない。もっと言ってしまうと、バカ映画を楽しめるということは、その人間の中にいわゆる「良識派」がきちんと存在しているということにもなるだろう。
ファレリー兄弟の作品群が良い例だろう。彼らは決して、バカな映画を作るためにヒューマンな物語を持ってきたりするのではなく、ほんとうにバカだし、ヒューマンなのだ。だから、あれだけすっ飛んでいても、露悪的なだけの作品が必然的に身に帯びる不快感を覚えさせない。
だから、バカな映画をバカだからという理由で面白がるスノビズムを、この映画に関してだけは、擁護したい。「このバカが理解できないなんてご愁傷様」と感じさせてくれる「一般人」の存在が必要なのだ。というか、ここまで純粋なバカ映画は、それがバカであることを理解できなければバカ映画ですらないのだからしようがない。理屈上では、アート映画を「高尚だから」という理由でありがたがったり、自分が「アート映画好き」であることに酔いしれるスノビズムと全く同じに見えて、ちょっと違うのだ。
そして見た後は、絶対にこの中のエピソード二つか三つ、人に語ってみせたくなるだろう。特に、人の耳のあるおしゃれなカフェやなんかで。それでこそ、この映画の機能が完結するというものなのだ。
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『ムービー43』 8月10日(土)ヒューマントラストシネマ渋谷 他 全国公開 公式サイト MOVIE43.asmik-ace.co.jp ©2013 Relativity Media |
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初出
2013.08.09 09:30 | FILMS