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モンテ・ヘルマン監督
『コックファイター』

凄絶だが甘美な記憶

文=

updated 01.18.2013

『銃撃』や『旋風の中に馬を進めろ』といったヘルマン作品を見ると、こんな企画が通るなんて60年代半ばとはなんて素晴らしい時代だったんだという気分になるわけだが、それはもちろん作品としての面白さに撃たれながらも、まあ当時ですら一般的に受け入れられるものでないだろうことはハッキリとわかるからだ。しかしながら、『断絶』やこの『コックファイター』になると、もちろん感想としては「こんな企画が通るなんてスゴイ」という同じ字面にはなるものの、こちらの二作の場合はおそらく真剣に商業的な成功を狙って作られた映画なのだろうということが感じられ、それ故にこそ「これが商業映画の企画として実現されるのはスゴイ」ということになる。

『断絶』においては、ジェームス・テイラーとデニス・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)というスター・ミュージシャン二人を主演させ、早くてカッコイイ車とロード・レースという要素で編み上げられた物語さえあれば「当たらないわけがない」とされた企画なのだろうし、『コックファイター』にしても闘鶏という人びとの好奇心をそそる胡散臭い営みをリアルに描けば、ある種の情報エンターテイメントとして(もちろん当時そんなジャンル感覚はないにしろ)成功させられるという目論見は理解できる。そして周知の通り『断絶』は惨敗、その惨敗を拭うセカンド・チャンスであった『コックファイター』も惨敗という結果が待っていたわけだ。

 

だがそんな史実を確認することで、「選ばれし少数者」としてこの二本の「カルト作」に対する愛情を再強化しても、何の意味もない。なぜなら、多くの人びとによってこれまでも語り尽くされてきた通り、この二作は単に面白い映画なのだから。

前述の通り『コックファイター』は、そこには闘鶏とそれに関わる男たちのディテールが、ドキュメンタリーのような丁寧さで描かれていて、その積み重ねを見つめるだけでも十分に楽しい。だがそれだけではなく、ウォーレン・オーツ演じる口をきかない主人公の、子どもじみて滑稽でもあり切なくもある物語は、我々を引き込まずにはおかない。

この男、開巻早々から口をきかないのだが、聾唖者ではない。自閉的な状態にあるわけでもないことは、表情や身振り手振りを駆使したコミュニケーションの回転の早さを見れば明らかである。大口を叩きすべてを失ったというおのが慢心を戒めツキを取り戻すための願掛けとして、発語を止めたに過ぎない。闘鶏と人生の闘いを完全に重ね合わせるための研鑽の道として、口をきかないことを選択したのだ。

 

だがもちろん、人生とはそうしたあながちな精進だけで割り切り押し切れるものではない。やがては現実の側が男に押し寄せ、そのミニマリズムを内破させるときがやってくる。それは女性の形をとるだろうが、必ずしも心地の良いドラマ的なうねりだけをもたらすわけではない。ある凄絶な瞬間として我々を撃ちのめすのだ。それは、衝撃のための衝撃ではない。その証拠に、その瞬間を目撃し体験した後、我々の裡に残るのは不快さではなく、硬質な強度を持った甘美な感覚なのだから。

こんな映画を、今ニュー・プリントとして初体験出来る者には限りない羨望を覚える。

☆ ☆ ☆

 
映画『コックファイター』ニュープリント版
1月19日(土)より、4週間限定渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開!
後、全国順次公開
(C) 1974 Rio Pinto Productions, Inc. and Artists Entertainment Complex, Inc.
オフィシャルサイト www.cock-f.com

スタジオ・ボイス特別号「MUSIC in CAR」>>“わたしのドライビング・ミュージック”よりDJ敷島こと安治川親方の「

車内は俺だけの
カラオケボックス」です!

初出

2013.01.18 18:00 | FILMS