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ラース・フォン・トリアー監督
『アンチクライスト』

本来ののっぺりとした表面

文=

updated 03.09.2011

トリアーは鬱病に罹っていたのだという。その治療の一環のようにして書き進めた脚本を、大した思い入れもなく撮り上げたらこうなった。だからそこには自分の抱える真実しか映っていないのだ、と。

もちろん眉に唾をして、そんな言葉は聞き流して作品に臨むわけだが、果たして鬱陶しいくらい精神分析的なプロローグではじまり、子を喪った妻のサイコセラピーが、カウンセラーの夫=ウィレム・デフォーによって開始されるに至るあたりでまず喚起されるのは、近年のデイヴィッド・リンチ作品であった。物語の筋ないし映像との脈絡がさして見当たらない音響設計。視点の主あるいは所在が突如見失われるショットの侵入。喪失の心理学を丁寧になぞるだけのように見えて、映画の道行きはそうしたものによって次々と脱臼させられてゆく。やがて、森の奥に潜む邪悪な存在の気配が濃厚になってゆくにつれ、これはオカルト系ホラーになるのではないかと俄然楽しくもなるのだが、その先に待っている事態は、それを三度転回させることになる。

これはたしかに、前述の言い訳めいた言葉はまさしく言い訳にすぎず、実のところ恐るべき率直さで映像化された恐怖と嫌悪についての私的告白なのかもしれない。トリアー十八番の方法論的な驚かしもない。近年のリンチ作品には、直接恐怖そのものに手を触れてしまったかのようなショットやシークエンスが満ちているが、この作品にはそういう意味での精神分析的深度もない。ただタイトル通り、キリスト教文化を反転させたイメージだけがある。反転させていると感じられるということは、要するにさほど罰当たりなことが起こっているわけではないということでもある。ただ、言語を失う奥へ奥へと遡上してゆくのがリンチ作品の印象だとすれば、外へ外へと膨らんでゆき外部の得体の知れないものに身体を絡みつけようとしているような印象はある。身にまとった「深さ」や「インテリジェンス」といったものが脱ぎ捨てられ、ようやくトリアー本来ののっぺりとした表面が現れたとでも言おうか。

と書いていると、どう見ても面白くなさそうに感じられるかもしれないが、実は結構面白いのだ。

『アンチクライスト』
新宿武蔵野館、シアターN渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町他、全国順次公開中!


『アンチクライスト』オフィシャルサイト
www.antichrist.jp

公開情報

(c) Zentropa Entertainments 2009



初出

2011.03.09 17:30 | FILMS