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ロウ・イエ監督
『スプリング・フィーバー』

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updated 11.09.2010

ただ、続いてゆく 文=川本ケン 『天安門、恋人たち』(06)によって、五年間の映画製作・上映禁止処分を受けたロウ・イエが、それでも海外から資金を調達し、家庭用デジカメを用いたゲリラ撮影によって作り上げたのがこの作品。脚本執筆の開始時期そのものは、禁止処分に先だつというが、中国国内では存在していないことになっているこの映画が語るのが、同性愛を含む一筋縄ではいかない愛の物語であったのは、そうした状況の中では、もちろん必然というべきだろう。 夫の浮気を疑う妻が探偵を雇う。探偵は、夫の愛人が男であることを突きとめるが、自身もまたその男に惹かれてゆき、関係を持つ。男は夫を捨て、夫は絶望の淵へ落ち、探偵の恋人である女も探偵と男の力動に巻き込まれるようにして、三人での旅に相乗りしてゆく。暗く不安定なカメラによって視界の伸びる先を遮られたまま、ただ惹かれ合い、弾き合う男女の姿が切り取られ、提示される。美しい男も女も現れない。ひたすら即物的な性交と諍いと絶望と倦怠が続く。 もちろん、こういう風に読解することはできるだろう。偽りの関係を結んでいる夫婦の真実は、貨幣によって雇用された探偵によって暴かれる。だが、職務を遂行しているだけのはずの探偵もまた、いつの間にか貨幣を媒介しない無償の行為として、調査対象との同性愛の関係に入ってゆく。一方探偵の恋人は、非合法的な、つまり存在しないことになっている工場で存在しないことになっているものを生産することで貨幣を生み出す作業に従事している。要するにそこもまた、中国における資本主義の縮図のような場所であり、彼女もある種のシニカルな諦観によって労働を続けているのだが、危機に瀕した経営者を、思わず無償で手助けしてしまう。その直後に彼女は、同性愛カップルの間に割り込むような形で、彼らと行動を共にすることになる。そこには、はじめからいかなる目的も存在しない。故に彼らの旅路はどこにも辿り着くことがなく、どのような形に結実することもない。 このように、誰もが偽りの生活を、偽りであると認識しながら送っているのだが、偽りであるというその認識の距離感もまた偽りであることを、偽りの生活を徹底することによって露呈してゆく。ひとは直ちに、その「偽り」こそが、中国共産党によってねじ曲げられた社会と経済によって生み出された軋みなのだと考えることだろう。だがむしろ、そうした捻れと即物的な絶望こそが、我々の生きるこの社会と経済の本質なのであって、それが中国において、つまりはこの映画において純粋な形で露呈しているに過ぎないのである。まさに、偽りであると分かった上で送られている偽りの生活こそが、真に偽りの生活なのである、という形で。 この映画が素晴らしいのは、「偽り」を「偽り」と認識したところで決して脱出することができないはずの「偽り」からはるかに隔たった場所にあっけなく到達してしまう瞬間の三人の姿を、文字どおり奇跡のようにあっけなく捉えてみせるところだろう。無償の旅の途上にある三人がついに、あるがままの姿でカラオケを歌うシーンにおいてそれは訪れる。物語的つじつまによって、その瞬間の悦びが解説されることはない。ただ、それが真実の瞬間であるということだけが、ほとんど調子外れな、滑稽ともいえる極めてヤスい歌謡によって、ただちに了解されるのである。これは周知のとおりロウ・イエ印とも呼べるのだが、そうとわかっていても、こういう瞬間のために我々は映画を見ているのだ。そして、そこでこの映画が終わることはなく、登場人物たちの生活は、たちまち元の偽りの中へと後退し、その後もただ続いてゆく。我々の生活がそうであるように。 『スプリング・フィーバー』 渋谷シネマライズほか、全国順次公開! 配給:UPLINK 【関連サイト】 『スプリング・フィーバー』オフィシャルサイト http://www.uplink.co.jp/springfever/

初出

2010.11.09 11:00 | FILMS