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ヴィム・ヴェンダース監督
『パレルモ・シューティング』

すでに経験されてしまっている

文=

updated 09.07.2011

ミイラの安置されたカタコンブのような空間、長針と短針のある文字盤の影、払暁らしき光と裸で窓の前に立つ男。窓枠からは、彼方にねじ曲がりながら流れる川と屹立する電波塔のようなものが見える。露骨にドイツ表現主義的を思わせる人工的な画面の中で何が始まるのだろうかと考える。

それがこの作品の冒頭部分なのだが、しばらくして、かつて『リスボン物語』(95)を見たときの感じを思い出した。憑かれたように自分自身とは違うなにかになろうと志向した何作かを過ぎ、そうした足掻きのようなものが脱色されたように抜け落ち、軽くぺらぺらかもしれないが紛れもなく自分自身ではあるというようなものを眺めている感覚。

とはいえ、わかりやすい自伝的な要素が見当たるわけでもない。主人公はファッション写真を主な食いぶちにしつつ、作家として美術館との仕事も平行して行っている写真家。極度に清潔で巨大なアトリエには、アシスタントたちがいて、彼の指示のもと、作品の上にありとあらゆる画像処理を施してゆく。つまりは、シャッターを切る瞬間も、画像処理をする瞬間も、すでに代替可能な時間のひとつにすぎない。そうした作業に倦んでいるというよりもその事実世によって、もはや十全に生を生きる事ができなくなっているのは明らかで、外出するときに乗り回すオープンカーでは常に耳にヘッドフォンを突っ込み、目の前の景色に音楽を塗り足すというより、現実そのものを変質させようというように脳内に音を響かせている。同時に、アナログのパノラマ写真機を持ち歩いていて、目にとまった景色や光があればシャッターを切るのだが、その様子には素材集めをしているに過ぎない素っ気なさと、それによって現実そのものに触れることができるかもしれないと感じているかのような焦燥が見られる。果たして、図らずも、文字通り死に神の姿を写し取ってしまう。というところから物語が動き始める。死に吸い寄せられるようにして、舞台はデュッセルドルフからパレルモへと撮影のために移動するのである(タイトルにある「シューティング」とは、そういうわけで「射撃」ではなく「撮影」を指す)。

もちろんそれは、そもそも彼が内側に抱えている空隙に死が具体的なかたちで忍び込んだということであり、その後断続的に彼を襲う夢ともうつつとも判然としないイメージの塊は、統合失調症的な幻覚のようでもあり、ファンタジー的な別世界の侵入にも見えるが、いずれにせよ自らの死を希求する表象の群に過ぎない。

過ぎないというのは、つまりそうしたことのいっさいがあまりにもあけすけに映像として表象され、どこにも謎めいたところが残されていないということであり、手の内をすべてさらけ出してしまったかのようなこの映画は、とりつく島のない映画にも誠実な映画にも感じられる。それでも、謎めいたところがないという事実自体が本質的な捻れなのだという切迫感だけは、デイヴィッド・リンチ映画の反響を遙かに感じさせながら、直に伝わってくる。ひとことで言えば、そういう不思議な映画なのである。

主人公がヒロインと語り合うセリフはおろか、いわばカーツ大佐のように現れるデニス・ホッパーがしゃべりちらすセリフにいたるまで、口にされる言葉の内容そのものが我々を撃つ事は微塵もない。どこかで聞いたような内容が繰り返されている以上のことはない。だから、そうした文学臭まみれのセリフや中世以降の西欧絵画からサイレント映画にいたるまでの記憶に充ちた映像表現、あるいは35ミリと16ミリによる撮影を混在させそれらすべてをデジタル処理したという方法論そのものではなく、なんの衒いもなくそうした正統的教養を放り込んでしまっているストレートさと、イヤホンを右、左と順に外すときのガサガサいうノイズや、右チャンネルから音楽が消えついで左からも消えるというように斬新ではなくても奇妙に精密な音響、そして不眠を抱えながらも場所を選ばず眠りに落ちてしまったあとで主人公がふと目覚めたときの思いがけず瑞々しい光といった、教養よりも先に表現そのものが到達する瞬間とが共存する中にこそ、この映画が紛れもなくこの映画以外のなにものでもなくなる時間があるのだ。

ストレートであることで本質的に捻れているという面白さ。どこかですでに経験されてしまっていることを怖れないことによって、この映画は我々の中に忘れられない手触りを残す。

『パレルモ・シューティング』
9/3より吉祥寺バウスシアターにて3週間限定の爆音レイトショー公開中!
ほか全国順次公開

□ 予告編/YouTube

□ オフィシャルサイト
http://www.palermo-ww.com/

初出

2011.09.07 18:30 | FILMS