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デイヴィッド・O・ラッセル監督
『ザ・ファイター』

映画に対峙する力量

文=

updated 04.11.2011

近年では、『ハッカビーズ』(04)における良い意味での映画マニア的なメタ・ポップの印象が強く、そのラッセルがストレートなボクシングもの、しかも実話を基にした、と耳にしたときには、ダーレン・アロノフスキーが『レスラー』(08)で果たしたような転回を見せるのだろうとまずは考えるのが自然だろう。そして確かにこの作品では、そんなことを何も知らずに映画館に飛び込んだ人間でも十二分に楽しむことの出来る挫折と勝利の物語が、視線を一切ボケさせない透明さで語られていた。

もう少し思い出してみると、ラッセルには『スリー・キングス』(99)という、おそらくは湾岸戦争を題材にした最初の戦争映画がある。戦場の不条理を滑稽きわまりない状況として捉え、その渦中にある男たちを大義から逸脱する行動に走らせるものの、ぐるりと回って最終的には大義そのものを貫く過激さに到達してしまうという、そういう意味では斜に構えているように見えて、ストレートな作品であった。つまり、決して映画マニア的な手つきの映画しか撮れない作り手ではなく、資質的にはアメリカ映画そのものを背負ってみせることすらできるはずの男なのだ。ここでは、その事実が明確に示されている。

そこにこそ、アロノフスキー的な転回との差異がある。『レスラー』が、ミッキー・ロークという「過去の人」の現実世界における復活物語と、劇中の主役たる「過去のスター・レスラー」のもがきを重ね合わせることで強度を高めたのに対して、『ザ・ファイター』はマーク・ウォールバーグとクリスチャン・ベールという職業俳優を起用し、あくまでも映画の語りのみによってストレートに観客の心を揺り動かそうとする。つまりは、映画と映画に対峙する己の力量に寄せる確信の度合いに、本質的な差が存在する。

ただしラッセルの場合、持ち前の「へそ曲がり」ぶりを発揮することで驚くべきストレートさに到達して見せているというきらいがなきにしもあらずなので、予断は許されない。この作品でも見せた、多声的とも呼べる複数の登場人物たちによる混沌状況を現出させながらもエモーションを起動させてゆくその手ぎわは、もしかすると将来的には、最良のアルトマンに匹敵する作品として結実することすらあるのではないだろうかと思わせられたりするのだが、まあ、そんなことを言われても本人はどう考えるのか。

『ザ・ファイター』
丸の内ピカデリー他にて全国順次ロードショー中!


『ザ・ファイター』オフィシャルサイト
http://thefighter.gaga.ne.jp/

公開情報

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初出

2011.04.11 10:30 | FILMS