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松江哲明監督
『トーキョー・ドリフター』

曇天の夜明けまで

文=

updated 12.07.2011

『ライブテープ』は、吉祥寺の町を移動しながら弾き語る前野健太の姿を、途切れのないワインテイクで捉えるという、一見編集の存在しない作品だった。だが当然のことながら74分という時間経過の中には、数々の結節点が巧みに配置され、言うならば、時間に濃淡を付けるというかたちの編集が施されていた。そしてここでの時間というものは、視線に切れ目がないが故に、町の様相そのものでもあった。その意味で、『ライブテープ』における吉祥寺という町は、歌の背景ではなく、歌こそが町の背景であった。

では、震災後二ヶ月強の時間が過ぎた時点での東京を彷徨いながら前野健太が弾き語るという『トーキョー・ドリフター』の方はどうか。だれもが、こちらの作品こそ主題は東京であり、前野健太の存在と歌はその東京を捉える視線の体現者、もっと言ってしまえば、東京の街を捉えるための言い訳に違いないと考えるだろう。しかしながら事実はその逆なのだ。

像を結ぶか結ばないかギリギリの朦朧状態から最初に聞こえてくるのは、女性を「高収入アルバイト」へと誘う祈祷めいた唄で、それが近づいたり遠のいたりしているうちに、湿った夜の道を遥かに捉えるショットが見えてくる。一台のバイクが走ってくるが、あまりにも小さいので、降り立った男がやおら歌いはじめるのを目にすると、少しだけぎょっとさせられる。このようにしてはじまる冒頭部分は、前野健太が夜の東京にいるという事実を明確に刻印するが、その後は、ひたすら演奏を続ける彼の姿が中心に捉えられ、ことさらに画角の広い映像が撮られることはない。

資料によると、この撮影のために松江哲明は、家電量販店で一万円程度のHDカメラを購入したのだという。だれかがたまたま前野健太の姿を撮ってしまったように撮ってくれというのがカメラマンへの指示だった、と。だから、画面はひたすら暗い。見慣れた店名を戴く建物の前で歌っていても、暗い。その暗闇に対峙して、前野健太は歌い続ける。

そう、対峙して、というところが重要なのであって、前野の唄は、東京の暗さ、すなわち現実を記録するための道具ではないのだ。ましてや、「震災前の東京」を懐かしみ、この街への愛情を確かめるなどという生ぬるい「表現活動」からは真逆のところにある。むしろハッキリと、この現実に対して、孤独な反撃に出ているのだ。

『トーキョー・ドリフター』を何気なく見てしまった粗忽者は、「この映画のどこに東京が映っているのか。ただ薄暗い中でおっさんが歌っているだけじゃないか」と言うかも知れないし、作り手におもねることばかりを考えている「良識的映画ファン」は「ここにあるのはまごうことなき東京の今だ」と口走るかもしれない。だがどちらもおなじだけ誤っている。

ここにあるのは、作品を見ればわかるとおり前野健太の唄であり、東京の街はその背景に過ぎない。だが、その背景があるために彼の歌があるのであり、背景のあり方が前野健太の唄に必然性を与えてもいる。だが、必然性を与えられているからといって、背景に寄りかかって存在しているわけではなく、むしろ背景の方を支えている。

ひとことで言ってしまえば、そこから生成される闇雲な自己肯定力が、この映画の強度そのものとなっている。震災に恐れおののき、母親のスカートにすがりつくようにして東京のドキュメンタリーを撮ってしまうのではなく、ただひたすら前野健太の唄によりそうこと。それこそが我々にできる唯一のことであり、しなければならない唯一のことなのだ、と認識してみせる力。

ここに映し出される5月27日の雨にも、放射能は多く含まれていただろう。今でもどれだけ状況が変わっているのか、だれにもハッキリとしたことは言えない。こんな街で生き続けるのも、捨て去るのも、彷徨うのも、駆け抜けるのも、完全に我々の自由ではないか。だが、感傷にまみれた澱みから抜け出せなくなるのだけは、バカバカしい。

ラストに至ってとうとう目に飛び込む、視線を解放すると同時に封じ込めるような夜明けの曇天は、そんなことを考えさせるだろう。

『トーキョー・ドリフター』
12月10日(土)よりユーロスペース他全国順次公開

□ オフィシャルサイト
http://www.tokyo-drifter.com/

公開情報

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初出

2011.12.07 12:00 | FILMS