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阿倍野勝彦+鈴木祐司
『青空どろぼう』

透明化してゆく現実の国

文=

updated 06.17.2011

『平成ジレンマ』を作った阿倍野勝彦の名前に興味を惹かれて、たいした予備知識もなく見始めてみる。すると、四大公害病のひとつである「四日市喘息」を巡る裁判の過程で、背後からその運動を支えた「公害記録人」澤井余志郎と原告団のひとり野田之一が、当時現在どんなことを感じ考えながら生活しているのか、ということが、当時の映像を交えながら静かに語られていた。なるほど、当時の映像は頻繁に目にするものではないし、判決から38年が過ぎてもなお「記録」を続ける人間がいるというのは興味深い事実ではある。喘息に苦しみながら生き続け、自らの経験を乾いたユーモアすらまじえて語りながら、最終的には「悪意はどこにも存在しなかった」という主旨の言葉を口にする野田の姿はきわめて魅力的に映る。

だがしかし、『平成ジレンマ』を貫いていた圧倒的な必然性は感じることができなかった。正しい以外のものになりようのない大義を後ろ盾にしたまま、その大義の正しさを語るという横着に陥っているではないか。そう感じ始めたとき、突如この作品の存在意義が姿を現す。

1988年に公害病認定制度が廃止されて以降、新たに公害病患者と認定された者がいないのであるから、公害はすでに存在しないのである、というトートロジーによって、公権力による現実の「再定義」が行われ、判決から38年の間に企業城下町化が隅々にまで浸透し、映画ではハッキリと示されるわけではないが、おそらくは福島第一原発の事故によって明らかになった東京電力による「手厚い地元対策」と同様のことがなされ、被害者である住民たちの持つ現実認識もまた「再定義」されてきたのであろうことが、明らかになるのである。それとともに企業側の人員には「世代交代」が進み、当事者としての記憶を持つ者がいなくなることで、かつての「運動」の当事者であるこの映画の主人公ふたりが今なお進める活動そのものもまた、なし崩しに受け止められるしかなくなってゆく。

たしかに公害の原因となる物質の排出量は、往事に比べれば圧倒的に減少しているのだろう。しかしながら、これもまた福島第一原発事故によって日々明らかとなっているように、ある基準を定められる時、中立的な主体によってそれが行われることはほとんどなく、従って現実の汚染レベルを確認し、それを超えたところに基準を設置することで、事後的に「基準値の範囲内」という現実が作られてゆく。それと同様のことが四日市や福島だけでなく、ありとあらゆるところで行われており、要するにこの国全体がそうした欺瞞によって出来上がっているということに他ならないのだろう。

近年の「工場萌え」ブームに乗った「町おこし」が語られるシーンも登場する。たしかに、四日市の風景は美しいと感じる。公害裁判当時の記録映像も、美しい。だがそれは、コンビナートの前でさざ波をたたえている海が今や完全に死に絶えているという事実込みで、あるいはその事実が故に美しいのだ。そうしたことに無自覚な「萌え」は、単純に現実の「透明化」への荷担であり、それはすなわち自らの首をそれと気づかず絞めているという、救いがたく愚かな行為に淫しているということにほかならない。まあ、それでよしとする考え方もあるかもしれないが。

という具合に、またしても様々な言葉を誘い出されてしまう、非常に刺激的な作品なのであった。

『青空どろぼう』
6/18(土)よりポレポレ東中野にてロードショー他全国順次公開

□YouTube


『青空どろぼう』公開を記念して、四日市ぜんそくの子供を持つ母親たちによる運動の行く末を記録した1970年の作品『あやまち』をはじめ、15作品が上映される「東海テレビドキュメンタリー特集」が、7月8日(金)までポレポレ東中野にて行われている。

□『青空どろぼう』オフィシャルサイト
http://www.aozoradorobo.jp/

公開情報

(C)東海テレビ放送



初出

2011.06.17 16:00 | FILMS