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齊藤潤一監督
『死刑弁護人』

湿った理想と乾いたリアリズム

文=

updated 06.26.2012

このドキュメンタリーの主人公・安田好弘弁護士は、同じ東海テレビの制作チームによって作られた『光と影〜光市母子殺害事件 弁護団の300日〜』にも登場している。被告人を弁護するというもっとも基本的な弁護士の職分を果たすことによって、「悪魔/鬼畜」呼ばわりされているのが、この男である。

周知のとおり、ネオリベラリズム的市場経済至上主義を極めたこの社会においては、誰もがサービス消費者であり、それ故に潜在的なクレーマー=「被害者」であり、そこには「加害者」への想像力が存在する余地は一切ない。そしてたいていの場合、メディアはそうしたクレーマー的熱狂と一体化し、さらに加速させてゆく。すべては単純な善悪の図式へと還元され、その枠組みによって理解できないものは、はじめから存在しないものとされる。

その中で永久に見失われてしまうのが、一方では社会そのものにとって重要な真実をもたらしてくれたかもしれない「加害者」の論理であり、もう一方では、単純な誤りであるどころか熱狂によって意識的に作り上げられることすらある冤罪の可能性ということになる。安田弁護士は、そうしたものを掬い上げようとし続けてきた。

ところで、「誤りであった場合に取り返しがつかない」ということだけが、死刑廃止の唯一論理的な説得力を持った根拠ではないだろうか。その他の、「国家が殺人を犯してよいのか」「刑吏の気持ちを考えろ」「更正の余地ある者を抹殺してよいのか」といった議論は、感情論を巻き込み純粋な論理性から逸脱するが故に、排除すべきだろう。「更正」を言うのなら、なぜ罪人が更正しなければいけないのかをまず考えねばならないし、そもそも「サイコパス」と呼ばれるような完全に治療不可能な「精神病質者」の存在もあるだろう。そもそも「処刑」は、国家の犯す唯一の「殺人」ではない。しかしながら、常に修正の機会を担保しておくというのが「民主主義社会」の根本的な思想であるとするならば、処刑によって修正可能性を捨て去ることは、明らかに「非民主主義的行為」であり、民主主義国家の社会制度がそれを保持するのは制度矛盾ということになるだろう。

そう考える者にとって、安田の語る内容にはどうにも湿ったナイーヴさと感じられる危うい箇所がいくつもある。だがそう感じさせられた次の瞬間には、例えば「林眞須美は保険金詐欺で大金を稼いできた人間なのだから、一銭の得にもならない殺人を犯すはずがない」というリアルな論理を、微笑と共に突きつけてくる。その振幅こそが彼の信念を支える強度であるのだろうし、そのせいで、我々は安田好弘という人間に惹きつけられてしまうことになるのだろう。それは、このドキュメンタリー作品そのものの放つ魅力の核心でもあり、その力によって観客は最後まで引っ張り続けられる。

いずれにせよ、素朴に湿った理想と、乾いたリアリズムに基づく論理性という、矛盾するはずのふたつのものによって、結局のところ語り得ない/理解し得ないかもしれないものの核心に、可能な限り肉迫し、なにものかを持ち帰ってこようというのが安田弁護士の仕事であるならば、そうした営みを許容できない以前に、必要としないような社会はかなり怖ろしいと、それこそ素朴な感想を抱かざるを得ない。そう考えさせるところにまで到達しているこの作品は、またしても見事な手際を見せているということでもある。

☆ ☆ ☆

『死刑弁護人』
6/30(土)よりポレポレ東中野、名古屋シネマテークにてロードショー、
他全国順次公開
(C)東海テレビ放送

□ オフィシャルサイト
http://shikeibengonin.jp/

初出

2012.06.26 09:00 | FILMS