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ミシェル・アザナヴィシウス監督
『アーティスト』

娯楽の外枠としての「サイレント」

文=

updated 04.06.2012

スコセッシ『ヒューゴの不思議な発明』は、サイレント映画の「体験」と、3D映画の「体験」を重ね合わせるというコンセプトには深く共感させられたものの、どこかタルさの抜けない映画だった。もはや当たり前のものになっているはずの3Dテクノロジーと、スコセッシの持つ語りの感覚との間に、まさか齟齬が生じたという単純な話でもないのだろうが……。

一方、「サイレント」を謳うこの『アーティスト』は、もちろんサウンドトラックを持った映画であるから厳密にはサイレント映画ではないのだが、セリフを字幕にして挿し挟むという形式の次元では、たしかにサイレント映画に違いない。にもかかわらず語りの次元での違和感が、不思議なほどに、ない。なにしろ、時代から取り残されてゆくサイレント映画スターのお話が、サイレント映画(の形式)で語られるのであるから、事態はさほど単純ではないはずなのだが、厳密さを求めすぎて隘路にはまり込むことがない。何よりも語りのなめらかさを優先したということなのだろう。それは極めて巧みにおこなわれており、音楽、照明、芝居の質、テンポ、カメラアングル、カット割り、それから主演のふたりの顔つきにいたるまですべての要素が見事に「サイレントっぽい」。それなのに、観客の側にはなんら特別なリテラシーを要求することなく、映画が機能してしまう。それがどのようにアップデイトされているのかということについて精密な分析を施せば、そのまま、今我々が慣れ親しんでいる映画の輪郭についての考察となることだろう。

そういう意味で重要な事実は、サイレント映画という形式に規定されたこの映画が、同時代ではあり得ないほどに単純な物語を語っているということだろう。言い換えると、サイレント映画という形式を選択することで、このシンプルな物語が映画として成立し得たということになる。

周知の通り、イヤと言うほど説明を詰め込まなければ「わかりにくい」とされる一方で、ストレートにわかりやすい作品は「物足りない」とされる現代においては、映画の中にぶち込まれる要素が、とにかくムダに膨れあがっているわけだが、ここでは特殊な形式が、必要最低限の要素だけで映画を成立させるための外枠として機能しているのである。

シンプルな物語に付けられたシンプルな大団円は、それ故に、涙腺を一挙に緩ませる。だからこそ、ラストにおける形式上の「一工夫」に関しては、「そんなもの要らないのに!」と憤慨させられもするのだが、そういうことをしてしまう大雑把さにこそ、この映画が成功した通俗的魅力の核が存在しているのだろうから、許すことにしよう。

☆ ☆ ☆

『アーティスト』
4月7日(土)シネスイッチ銀座、新宿ピカデリー他全国順次公開
© La Petite Reine-Studio 37 – La Classe Americaine – JD Prod –
France 3 Cinema – Jouror Productions – uFilm

□ オフィシャルサイト
http://artist.gaga.ne.jp/

初出

2012.04.06 13:30 | FILMS