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スティーヴン・スピルバーグ監督
『リンカーン』

亡霊の昇天

文=

updated 04.17.2013

リンカーンといえば、「南北戦争に勝って奴隷を解放した大統領」というくらいのイメージではないだろうか。それで間違いはないのだが、実際にはそれほど単純な話ではなかった。

南北戦争が始まって二年目が終わろうとするころにいわゆる「奴隷解放宣言」をしたものの、それは戦争が終わってしまえば放棄されてしまう「戦時立法措置」に過ぎず、アメリカ合衆国が奴隷制を正式に放棄するためには合衆国憲法を修正する必要があった。しかし、修正条項を成立させる最初の試みは、上院で可決されたあと下院で否決され、失敗に終わる。リンカーンはその状態で再選され、二度目の任期に入る。戦争は四年目を数え、敵も味方も終結を願う。ようやく北軍の勝利がちらつきはじめているのは良いものの、このままでは、修正条項を批准する前に戦争が終わってしまい、「奴隷解放」などというお題目は忘れ去られてしまうかもしれない。この映画はそこから始まる。

始まった瞬間から、リンカーンは疲労しきっている。背中は曲がり、声は弱々しく、足を引きずるようにして歩いている。背後からのシルエットとして登場するその姿は、世界の重みにうちひしがれているように見える。いやむしろ、肉体が死した後もなお苦役から解放されない亡霊のようにすら見えるだろう。

 

数年前に幼い息子を疫病で亡くし、妻はいまだ深い悲しみの底にあり、長男は従軍したいと訴え、この上長男を死なせたら一生許さないと妻には脅され、下院には可決にほど遠い数の賛成者しかおらず、身内のスタッフの中にも悲観論がはびこっている。

それに対してリンカーンは、「この人はもう死んでいるのだ。ただ内戦を終わらせ、奴隷を解放するためだけに動き続けている」という具合に、ギリギリのところで踏みとどまり邁進を続けるというようなエネルギー量すら感じさせず、ただひたすら弱り切ったまま、のらりくらりと人びとをたきつけるようなはぐらかすような逸話を披露したり、精緻な計算と明確な状況認識があるようにも見せないまま、じわりじわりと物事を進めていく。

たしかに、その亡霊に近い姿は『プライベート・ライアン』におけるミラー大尉(トム・ハンクス)の姿に重なるのだが、リンカーンの方は、あのノルマンディー上陸作戦を一千回ほど繰り返してきたかのような疲労を抱えている。絶望的な状況の中で疲れ果てながら前進する様子は、奇妙にも、レオス・カラックスの新作『ホーリー・モーターズ』における主人公(ドニ・ラヴァン)の方にむしろ近いようにも感じられるだろう。計画があるようなないような、意志があるようなないような。いや、「意志の塊」というような段階はとうの昔に通り過ぎていて、もはや人間の意志ですらなく、人びとに憑依し、歴史を前進させてゆくぼんやりとした神の意志のようなものと化していると言った方が近いのだろうか。

 

そういうわけで、「民主主義を信じる」だとか、「すべての人間は平等」といったお題目の実現が描かれているから感動的なのではない。ただ我々の目の前を漂い、煉獄の中で彷徨いながら人びとを見守り、後押しし続けているリンカーンという亡霊が、最後にようやく昇天を遂げる瞬間に立ち会えるからこそ、我々は涙することになるのだ。修正条項が可決された瞬間、彼の執務室には、確かに天の光が射し込んでいる。

その日から、内戦が終結し、銃弾に斃れる日までの間には、ほんの二ヶ月半の時間しか残されていないわけだが、この世での仕事を完全に終えたリンカーンにとって、短すぎたということはないのだろう。

☆ ☆ ☆


『リンカーン』
4月19日(金)TOHO シネマズ日劇他全国公開!
20世紀フォックス映画 配給
(C)2012 TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION and
DREAMWORKS II DISTRIBUTION CO., LLC

公式サイト http://lincoln-movie.jp
公式facebook:http://www.facebook.com/LincolnMovieJP
公式twitter:https://twitter.com/LincolnMovieJP

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初出

2013.04.17 10:30 | FILMS