GRAVITY

アルフォンソ・クアロン監督
『ゼロ・グラビティ』

映画という器

文=

updated 12.12.2013

一方で「フェイク・ドキュメンタリー」という手法で、他方で「3D」というテクノロジーによって、映画はますます実体験そのものとなることを目指してきた。もちろんそれは、映画が原初から備えている欲望であり衝動であるわけだが、極小と極大の予算枠を持った娯楽作品群がその一点において重なり合うことで、極めてわかりやすい形で、改めてその事実を顕在化させてきたのがここ十数年の傾向だった。

では、クアロンが『トゥモロー・ワールド』(06)において試みたのは何だったのか? 周知のとおりあの作品は、近未来SFという形式の中で、ディストピア社会の風景を、リアルな手触りと共に提示することが目指しており、その核心は、物語そのもの以上に、どのように撮影されたのかわからないくらいスムースに進行する驚異的に複雑な「ワン・シーン=ワン・ショット」にあった。それらがどのように段取られたのかがわからないが故に、そこに映し出される出来事=風景はどこまでも現実(の触感)に漸近していったのである。

さて、その『トゥモロー・ワールド』での試みを踏まえて、この『ゼロ・グラビティ』では何が行われているのか。端的に言ってそれは、文字通り「実体験」そのものの提供であった。そこでは、「フェイク・ドキュメンタリー」と「ワン・シーン=ワン・ショット」と「3D」の三つすべてが最大限に駆使されることで、「リアルな触感」を遥かに超えた「体験」が生成されていた。我々は実際に、宇宙空間に取り残されるのである。

開巻から、「いったいどこでこのショットは途切れるのだろう?」と固唾をのんで見守る我々は、カメラが登場人物たちのまわりを自在に浮遊し、やがてそのうちのひとりの目線と同一化し、再び離れるまでのどこかの時点で、カメラの存在や撮影という段取りのことはおろか、これが映画であるということすらも忘れ去り、主人公と共に宇宙酔いを感じながら、どうにかして大気圏に、すなわち重力圏に帰還したいということだけを希いはじめている。

 

本作は、映画の持つ現実そのものになりたいという欲望を、最も高度な地点で具現化した作品なのである。それ以上でもそれ以下でもない。そして、それ以上でもそれ以下でもないという事実がまた、映画に関する興味深い事実を示してもいる。

つまり、映画が体験性の濃度を上げていくとき、そこで語られる物語は必然的にシンプルになってゆく。要するに、シンプルな物語でも映画が“もつ”。その場合は「体験」こそがこの映画の「内容」ということになる。だから、「体験」さえあれば余計な「ネタ」をこれでもかと詰め込む必要がなくなり、近年まれに見るシンプルな筋書きだけで、観客を十分に満足させられる「内容」を獲得することができたのである(もちろんそれでもなお、例えばヒロインの語る過去の不幸な記憶のように、これが現代映画でなければ必要でなかったに違いないディテイルを見いだすことはできる)。

 

という事実をぐるり裏返すと、いずれにせよ映画という器は肥大してしまっているということにもなるだろう。以前よりも多くの物語やネタや体験、あるいは特殊な形式によって映画という器を充填し尽くさなければ、娯楽映画が成立しないということでもあるのだから。

それはまさに、映画というもののもつ「重力」ということにもなる。巨大化した映画の重力は、なんでも吸い込んでしまう。『ゼロ・グラヴィティ』という映画は、我々の「体験」を吸い込むことによって映画として成立した。だがそこに「体験」がなかったとしたら、その数倍の「内容」を吸い込まないではすまなかっただろう。

☆ ☆ ☆

『ゼロ・グラビティ』
12月13日(金)全国ロードショー<3D/2D同時公開>
オフィシャルサイト http://zerogravitymovie.jp/
facebook https://www.facebook.com/zerogravitymovie
配給:ワーナー・ブラザース映画
(c) 2013 WARNER BROS.ENTERTAINMENT INC.

 

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初出

2013.12.12 10:00 | FILMS