映画の黎明期、大写しにされた手のショットを見て、「手首が切り落とされている!」と震え上がった観客の話は有名だが、そうした例を引くまでもなく、映像は本質的に不吉なものである。そこに写っているものと、それを見たいという強烈な欲望とがセットになってそこに存在しているのだから。見たいという欲望から外れたところで映ってしまった「心霊映像」のような場合でも、心霊を見たいという欲望こそが映像の中に心霊を見い出させるのであるし、撮影者の欲望とは無関係に見る者の欲望を起動させてしまうという次元にも、映像の不吉さがある。この不吉さこそが、映画の歴史を牽引してきたもののひとつであることに異論はないだろう。
さて、この映画はこんな映像から幕を開く。
袋を被され後ろ手に縛られた人間が四人、首にロープをかけられた状態で大木の傍らに立っている。やがてゆっくりと彼らの身体が持ち上がり、ジタバタと足が宙を蹴り始める。
見ているのは、実録犯罪モノの作家(=イーサン・ホーク)で、彼は「一家首吊り事件」を題材とした自作の取材・執筆を開始しようとしている。そのために、事件現場となった被害者宅へ家族揃って引っ越してきたのである。
箱の中には他にもフィルム缶があって、「バーベキュー 1979」だとか「プールパーティー 1966」という風に同じシステムでタイトルが付され、それぞれが盗撮映像と殺害映像という組み合わせで構成されている。
一体誰が何のために撮影し、しかもこの家の中に放置していったのか? 犯人がどこかから作家一家を見守り盗撮しているのか? 事件後犯人がこの家に舞い戻り、フィルムを置いていったのか?
作家は、よもやこの家が事件現場であるとは家族に話していない。それにも関わらず娘は家を出たがり、息子は夢遊病の発作を頻発させる。尋常ならぬ様子に妻が気づき夫を責め立てるが、次回作に取り憑かれた作家は、その訴えに耳を貸さない。
要するに、『シャイニング』の作家、『リング』の呪いの映像、過去のスナッフ・フィルムもの、幽霊屋敷ものの要素をひとつひとつ取り込み、組み上げたというものであり、全く新しい趣向が披露されるわけではない。
それにしても、ここで8ミリが用いられているのは、あいかわらず画素の粗さというノイズ、撮影と現像の間にある隙間、そしてフィルムを物理的に切り貼りすることによって生まれる触感のすべてが、前述した映像の本質的不吉さを支えているからであって、それはそれで事実だから良いだろう。しかしながら、そうした特質すべてをひっくり返したデジタル映像の持つ、見る欲望と映像の直結の中にも、それ以上の不吉さが潜んでいるように感じられるのだが、この方向で考えていけば、フェイク・ドキュメンタリー手法ではない地平の上でも、さらに映像の邪悪さに踏み込んでいけるのではないだろうか。主人公が、映像を即席テレシネ(投影されている映像をデジカメで撮影)してパソコンに取り込み、コマ単位の分析を行ったりするシーンを見ていて、そんなことをぼんやり思った。
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『フッテージ』
5月11日(土)ヒューマントラストシネマ渋谷、ユナ
イテッド・シネマほか全国順次ロードショー
配給:ハピネット
(C)2012 ALLIANCE FILMS (UK) LIMITED
公式サイト http://www.footage-movie.jp/
初出
2013.05.10 09:00 | FILMS