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リー・ダニエルズ監督
『大統領の執事の涙』

「正史」からの偏差

文=

updated 02.19.2014

アメリカ南部の綿花畑の黒人奴隷一家に生まれた少年が、「ハウス・ニガー(家事奴隷)」として執事の仕事を仕込まれ、やがてホワイトハウスに務めるようになる。それが1950年代のことで、そこから80年代に至るまで8期の大統領に仕え続ける。それはすなわちアメリカ現代史を、ひとりの黒人の目を通して読み直すという物語にほかならない。

目の前で気まぐれに父親を射殺されるような境遇にあった主人公は、プロの「執事」として「空気」のような存在になることによって、すなわち白人の作り上げたシステムの中に溶け込むことで社会的地位の上昇を果たす。「奴隷」ではなく「労働者」としての仕事は深い悦びを与えてくれるものであるし、そこから得られる収入によって家族を養っているという事実に誇りを持ってもいる。

だから、その次の世代である息子たちもまた、黒人に許された範囲内で最高の教育を受け、さらなる社会的地位の上昇を目指すのが当然のことと考えている。だが、長男自身はそう感じていない。父親の世代の姿勢を欺瞞的なものと捉え、社会そのものに対して、より根本的な変革を求める。その活動は、白人の作った法に触れることでもあるし、自ら苛烈な弾圧の矛先に身をさらすということでもある。

当然、父親である主人公は、それを愚かな所業と感じる。社会的な地位を上昇させたいのであれば、社会に認められるような「人間」になれば良いのだと、一途に思い込んでいる。もちろん、それは「社会に認められる人間」ではなく、「白人に認められる黒人」ということでしかないのだが、その事実に気づくためには長い時間を必要とする。自らの認識全体を基礎から構成するパラダイムの外側に出るというのは、誰にとっても極めて困難なことなのだ。父親と対立し続ける息子もまた、自分がパラダイムから一歩足を踏み出せたのは、頑迷さそのものと見える父親の地道な努力の結果として獲得された家庭環境に拠ることに、なかなか気づけない。

この図式はいつの時代にも存在している。例えば現在、「格差に文句を言う暇があったら、努力によって社会の中で成功すればよい」と諭す者には、別の形のあり得べき社会を想像するのはムリだろう。だから彼らにとって、すべての異議申し立ては、愚かで子どもじみたバカ騒ぎということになる。だがちょうどこの映画で見られるように、アメリカにおける公民権運動の歴史が示しているのは、社会に根本的な改変をもたらすことは可能であるという事実なのだ。オセロのようにすべてが一撃で変わるということもないし、変化そのものは地味で小さくしかも苦痛を伴うものなのだが、気づくと風景が一変しているということはあり得る。その事を、それこそ外連味には見向きもせず、ひたすら丁寧に描いてみせるのがこの映画である。

 

ところで我々は、ドワイト・D・アイゼンハワー(ロビン・ウィリアムズ)、ジョン・F・ケネディ(ジェームズ・マースデン)、リンドン・B・ジョンソン(リーヴ・シュレイバー)、リチャード・ニクソン(ジョン・キューザック)、ロナルド・レーガン(アラン・リックマン)といった大統領たちの姿を目にすることになる。モノマネ的な意味では全く似ていないのだが、それは意識的になされた選択であるような気がする。すなわち、我々が脳の中に蓄積させてきた彼らのイメージというものもまた「正史」にほかならず、ちょっと似ているけど全く違うという彼らの姿こそが、この映画の描く「歴史」が持つ、「正史」からの偏差であるし、真実のあり方そのものなのだろう、と。

☆ ☆ ☆

『大統領の執事の涙』
新宿ピカデリー他全国ロードショー公開中
オフィシャルサイト butler-tears.asmik-ace.co.jp
©2013,Butler Films,LLC.All Rights Reserved.
配給:アスミック・エース

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初出

2014.02.19 09:30 | FILMS