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レオス・カラックス監督
『ホーリー・モーターズ』

無数の生まれ変わりたち

文=

updated 04.05.2013

かつて、押井守原作/森山ゆうじ画による『とどのつまり…』というマンガが、『アニメージュ』誌上で連載されていた。アニメーターのはずだが絵を描けなくなった主人公が、恋人だったはずの女に裏切られ、アニメ制作スタジオのはずなのに実は武装地下組織だったという集団と共に、冗談のように命がけの戦争に参加することになるというお話で、そんな具合に物語世界は二重三重にひっくり返り続け、すべてを見失った主人公はやがて、おろおろと巻き込まれ続けるのをやめる。

「世界は舞台であり、人間はその上でそれぞれの役を演じる役者にすぎない」だが、「この芝居が恐ろしいのはいつ幕があきどこで幕がおりるのか演じつづけながらどうしても思い出せないことなのだ」。ならば死ぬまで好きなように演じ続ければいい! というわけだ。当時中学生だった筆者は、その乾いた世界観に興奮し、おそらく多くの若者たちがロックによって得たような昂揚に突き上げられたものだった。

カラックスがいつのまにか撮り上げていた新作『ホーリー・モーターズ』で語られるのもまた、ひとまずそういうお話であるとは言えるだろう。ドニ・ラヴァン演じるところの主人公は、身の危険を抱えるまでに裕福な銀行家として登場し、リムジンの中で扮装を変えては、物乞いの老婆となり、短編オムニバス『TOKYO!』にも登場したメルドとなり、思春期の娘の父親となり、殺し屋となり殺される男となり、という「アポ」を一日のうちに次々とこなしてゆく。

それぞれは映画の1シーンのように見えるのだが、カメラの姿はどこにもなく、やがては役柄として演じている現実と、その外側の現実との境目も曖昧になってゆく。それでも、ひとつの「アポ」が終われば「アポ」が始まる。死んだと思っても生き返るし、殺したと思っても捕らえられることはない。だが、背後に残した死体もまた演じられていたのかどうか判然としないし、涙ぐむ少女の感情が偽物だったという証拠もない。いったい誰のために、なんのために演じているのか皆目わからないが、真剣なことだけはわかる。真剣であるからこそ、可笑しかったりもする。

 

途中現れる責任者風の(ということはプロデューサー風でもあり、マフィア風でもある)男(ミシェル・ピコリ)との会話をそのままに受け取るならば、カメラが小型化し、フェイクドキュメンタリー的手法と3Dというテクノロジーによってますます体験そのものであることを目指し続けた先にあるかもしれない映画の形についての考察のようにも感じられるだろう。映画史的な記憶もたっぷりちりばめられている。映画と体験との境目がなくなった時、映画史はどこに接続されるのか。あるいは、そのようにして映画がもはや存在しなくなった時代を舞台にしたSFということになるのか。

それはもちろん、誰もが自らの物語を抱えていてそれがいつかは映画になるのだと信じるアメリカ型エンターテインメント社会を裏返したものでもあるだろうし、タイトル「ホーリー・モーターズ=聖なる(複数の)原動機」を字義通り受け取れば、ここに映し撮られているのは、この世界を支える小さな物語の断片を演じる仕事なのだ、ということにもなるだろう。主人公の演じ続ける小さな人生断片がなければ、この世界そのものが崩壊してしまうのだ。

そんな一日を過ごす主人公の物語は、眠れない一人の男(レオス・カラックス)が夜更けに降り立った劇場の中で見ている夢=映画のような、というような外枠を提示した上で展開され、最後には突如ディズニーめいたファンタジーが導入されて幕が引かれる。

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初出

2013.04.05 10:00 | FILMS