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白石和彌監督
『凶悪』

耐え難くやりきれない日本の息苦しさ

文=

updated 09.24.2013

ほんのちょっと海外に出て帰ってきただけで、道路は清潔だし、路上にたむろしている不穏な若者もいないし、人混みで掏られる心配もないし、地下鉄の車内なんて自宅の居間並にパンツ一丁で気を抜ける空間に感じられたりして、毎度感心すると同時に退屈な気分になるわけだが、そんな日本でも日夜人が殺されていて、TVのニュースでは次から次へと“信じられないほど凶悪な事件”が報道されている。

だがそういう“凶悪な事件”にしても、学校にマシンガンを持って乗り込んで生徒を殺しまくっただとか、孤独なおっさんが誰にも知られず何十人も殺して庭に埋めていただとかいう話ではなくて、やっぱりどちらかといえばイヤになるくらいセコイ事件ばかりで、つまらないかんじがするから、ますます国内の事件はショボイなあ、なんてうそぶきながら海外の連続殺人鬼ものを渉猟したりしてしまう。

しかし当然のことながら、ひとたび生活空間の文脈の中に入り、その事件を発生させた環境や風土を知ってしまえば、どんなにセコい殺人事件でも凄惨でやりきれない事件ということになる。換言するならば、この日本で繰り返されているセコくちんけな事件がイヤになるのは、単にセコくちんけだからではなくて、その事件を生みだしたこの日本という時空がセコくちんけであることを、そしてその現実の中で我々もまた生きていることを、無意識のうち感じさせられてしまうからなのだ。

この映画における“凶悪な事件”にしても、そんな殺人ばかりである。例えば、ヤクザと手を組んだ不動産ブローカーが土地の所有者を殺す。雑誌記者である主人公の上司が言うように、「当たり前すぎて記事にならない」くらいちんけでつまらない事件ではないか。あるいは、廃人に近い肝臓のぶっ壊れたアル中老人を、その家族の依頼で引き取り殺すという保険金殺人にしても、それだけを聞けば、ほんとどうでもいい事件にすぎない。

だがそのどうでもいい人たちが殺されたどうでもいい事件を、突如我々の生活と直結させ、そうした殺人事件とおなじ地平で我々もまた生活しているという単純で目を背けたくなる事実を観客に突きつけるのが、この映画なのだ。

 

主人公もまた、そうした事件を食い物にする雑誌の記者であるが故に、当初は我々と同じ冷淡な目線を持っている。だが、極悪な死刑囚が自らの立場を悪化させる余罪を告白することで、ひとりの“凶悪”な殺人犯の存在を告発しようとしている、というその一点によって好奇心をそそられ、惹き寄せられてゆく。

もちろん、この映画の脚本は丁寧に作り込まれているので、主人公自身の日常生活が、ボケの始まった実母と妻の間で板挟みになっているという、逃げ出したい現実そのものと化しているという設定を盛り込むのを忘れていない。それによって、社会が目を背けている“凶悪な事件”という現実が、彼自身が目を背けている現実そのものとも重なるという構造が生まれ、いわゆる常軌を逸した取り憑かれ系の主人公の物語が完成するのだ。かくて妻にはなじられ、上司には難詰されながらも、彼は事件を追い続けるのである。

そして、その“凶悪事件”を語る構造にも、この映画の巧みさがある。事件を追う主人公の現在時の中で、事件の起こった過去の時間軸を回想というかたちで見せるのではなく、ある瞬間から主人公の現在時と重なり合うようにして同時進行させてゆく。それはとりもなおさず、我々と事件そのものとの距離を埋める構造でもある。

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初出

2013.09.24 09:30 | FILMS