2018_10 Lierres

北緯48度の読書日記/Lecture à latitude 48ºN 5

アラー・アル・アスワーニー(1957~/エジプト)
『僕はナイルへ駆けた』

文・写真=

updated 11.03.2018

世界37言語に翻訳されているエジプトの作家アル・アスワーニーは歯科医である。

また、2011年のエジプト革命(アラブの春)で中心的な役割を果たした「キファヤ」運動の創設メンバーでもある。エジプト革命のときは18日間タハリール広場に出て、朝だけ帰宅し、無事な姿を家族にみせ安心させた、と最近ラジオ(RFI)のインタヴューで語っていた。

当時30年間君臨していたムバラク大統領は、あっけなく辞任したが、その後、軍事クーデタのようなかたちで政権に就き、今年はじめの大統領選挙で「再選」されたシシ体制は、ムバラク時代にまして非民主的で、かつての革命家たちの受難と幻滅の時代に入っているように見える。

今年出版された本書は、彼が初めてエジプト革命を真正面からとりあげた小説である。

[フランス語版]
Alaa El Aswany, J’ai couru vers le Nil, Actes Sud (France), 2018
Roman traduit de l’arabe (Egypte) par Gilles Gauthier

彼の小説はいつも群像小説だが、たんに登場人物が多いだけではない。その出自、社会的地位がじつに多彩なうえ、一人ひとりの人物が、克明な造形、描写によって生々しく立ちあがってくる、まるで壮大な細密画のような小説。

この小説の登場人物たちもその例に漏れない。政府の重職にある将軍、テレビの人気女性司会者、高名なイスラム教の説教師、「将軍」の愛娘の医学生、運転手つきメルセデスで通学する彼女が思いをよせる優秀で清廉な医学生、彼を男手ひとつで育てる貧しく実直な父。正義感あふれる若い女性教師、彼女が参加するキファヤ運動の同志であるエンジニア、その亡父の旧友であり、上司でもある工場長は、共産主義活動家として投獄された過去を清算している。それから、コプト教徒の貴族とその召使い……と挙げていくと長くなる。彼らがそれぞれの立場から関わる革命前後が描かれる。

特異なのは、物語のなかに当事者(仮名)による証言が挿入されている点だ。ページ数にして全体の5パーセントほどの部分で語られるのは、当局による悪名高い「処女検査」と「マスペロの虐殺」だ。

後者では、コプト教徒の平和的なデモが軍によって実弾で襲撃、ジグザグ暴走する装甲車で蹂躙される。ある証言者は、手に手をとって歩いていた名も知らぬ「同志」がいきなり頭を撃ちぬかれ、亡骸もそのままに逃げ惑う。仏語版タイトル『僕はナイルへ駆けた』は、その一節から採られている(原題は「えせ共和国」といった意味)。先述のインタヴューで著者は、これらの出来事はフィクションを超えてしまった、と言っていたが、そのような事態を小説にとりこむために採られた誠実な手段といえる。

とはいえ、これはあくまでも小説である。アル・アスワーニーの凄さはそこにある。

彼は政治的意見を主張するために小説を書くのではない。ひたすら物語のため、登場人物に血肉を与え生命を吹き込むため、彼らの声を聴くために書いている。強靭なほどの想像力なしにはできない営為。

体制の腐敗やイスラム教を盾にしての偽善、侮蔑的な横暴、庶民が強いられる不条理な差別や恥辱、拷問……、そんな絶望するほかない状況を描きながら、そこには個々人のドラマがあり(ブラックな)ユーモアがある。「将軍」の性生活の描写などはその好例だろう。読者は義憤をおぼえこそすれ、つらいばかりではない、物語=フィクションを読む圧倒的な面白さ、楽しさがそこにあるのだ。

なかでも小説ならではの印象的な場面がある。小説の中盤、革命が最高潮にたっした頃、政府機関の臨時本部がおかれたかつての貴族の豪邸に、実業界の重鎮やスポーツ界、芸能界のスター、宗教界の高位者ら、エジプトのきら星が一堂に召集される、ものものしい場面だ。

ここで、大統領がちかく辞任することが発表され、国家が瀕する未曾有の危機を救うため(経済的な)支援が要請される。
これに応じた大富豪の出資でテレビ局が開設され、露骨な反革命キャンペーン番組が放送される。たとえば、モザイクで顔を隠した若者が登場、「元革命参加者」を自称し、タハリール広場に出て「一日につき1000ドルを外国の機関から受けとった」「革命に先立ち、セルビアやイスラエルで訓練を受けた」などの「証言」をする。

また、マスペロの虐殺の際には、「軍がコプト教徒らに襲撃されている」と報道し、軍への支援が呼びかけられる。ちなみに、これは当時、実際にあった話のようだし、シリアでも似たようなあべこべの報道があったと読んだことがある。

このようなわけで、アル・アスワーニーのエジプトの出版人は、刑務所に入る覚悟ができていないと言って、この小説の出版を拒んだ。そのためアラビア語で書かれた原著は、ベイルートの出版社から刊行され、アラビア語圏ではレバノン、チュニジア、モロッコをのぞくすべての国で禁止されている。

読後、著者への敬意とフランス語版翻訳者への感謝の念がふつふつとわいてくる本。

※著者名のカタカナ表記はより普及しているように見える「アル・アスワーニー」を採用した。

[原書]
Titre original : Al-Joumhouriyya Ka’anna, Dar Al-Adab (Beyrouth),2018