abrimeteo07_La tete de rongeur

北緯49度の百葉箱 7

齧歯類の顔

文・写真=

updated 07.14.2015

復活祭のバカンスで出かけた田舎から新じゃがいもを買ってきた。皮が薄く水分の多い新じゃがはこの季節だけ出回り、皮ごと蒸し焼きにするだけでおいしい。これをつけあわせとして献立をたてたいが、留守にしていた自宅の冷蔵庫には卵くらいしかない。生鮮食料品はふだんなら週末のマルシェで買うのだが、新じゃがを新鮮なうちに食べたいがため、スーパーの肉売り場へ行き、安くなっていたウサギを買った。小さいのを頼むと、肉売り場のおばさんは一羽とって量りにかける。1.3kg。まあよしとする。並べられたウサギは皮は剥かれていたが、頭がついていたので断頭をお願いし、おばさんがウサギをぶつ切りにしているのを目のはしで確認する。

さて、帰宅して包みを開けると、ぶつ切りの肉塊と一緒に頭部もごろりと出てきた。そういえば彼女は頭つきのウサギの重さを量っていた。頭のなにが困るといって、その目である。ビー玉のような目は、外側は白、内側は黒の文字どおり二重丸。ちょうど品揃えのよい手芸店ならおいてありそうな、ぬいぐるみ用プラスチック製眼球のよう。皮が剥かれているのでもちろん瞼がないウサギは、びっくりしたようなまんまるの目を剥き出しにしている。

反射的に目をそらし、どうしたものかと考え込む。これが魚だったら、その目に動揺することもなく、ホホだカマだとありがたがって食べるのに、哺乳類の頭はありがたくない。いや、むしろ困惑するばかりだ。『ラルース料理事典』を開くと、ウサギの皮の剥ぎ方は顔面部分もふくめて解説があるが、頭部を料理に入れるか否かについては言及がない。言うまでもなく入れるのか? 入れないのか? しばらく逡巡したのち、棄てるに忍びず、ほかの部位と一緒に鍋に投入した。マスタードクリーム煮にするつもりだった。煮込み料理なので最終的に形がわからなくなるだろう、いや、わからなくなって欲しいと期待してのことだ。

とはいえ最初の段階で、肉は焦げ色がつくまで炒めなければならない。その作業をおこなうのに鍋のなかが直視できない。ウサギの顔を見るまいと、焦点を合わせずに視線をよろよろと鍋のなかに泳がせ、顔らしき物体のありかを、目玉を目印に漠然と把握し、そこをよけてほかの肉塊の焼き加減をうかがう。焼き色を見てはひっくり返したりしているうち、うっかり顔をもろに見てしまった。
ウサギの顔の第二の難点、というか調理者の目から見てつらい第二のポイントは、いかにも齧歯類らしい出っ歯ののぞく口である。目に入った半開きのその口からは、なにか、つるんとした感じのものがのぞいていた。見まちがいかと思わず目を凝らし、推測するに、どうも舌が口の横っちょからダラリと垂れてきたようだった。べつに白ワインなどは入れていない。すでに戦々兢々としていたが、ここに来て、ほとほとやりきれない思いになる。ほうほうの体で、ようやく蓋をして煮込みに入る。

単なる背肉やモモ肉ならなんとも感じないのに、どうして顔だとこんなに心が騒ぐのか。そこに人格とかアイデンティティとか感情のようなものが見えた気がしたとして、それは幻想にすぎない。そもそも「人格」などとウサギを擬人化するのは、フィクションの影響を受けるにしてもナイーヴすぎる。そうわかってはいても、いたたまれない思いは払拭できない。蛮行をはたらいているような気の昂ぶり。頭部も鍋に入れるのは端的にまちがいだったか。

『長靴下のピッピ』に豚の丸焼きのエピソードがあった。隣家のお茶会でご婦人たちが家政婦の愚痴をこぼしあっているところへピッピが来て、祖母のトンチキな召使いの話を披露する。クリスマスにだす豚の丸焼きは、口にリンゴをくわえ、耳に紙の飾りをつけると指示されたこの召使いは、みずからリンゴをくわえ、耳に紙飾りをつっこんだ姿で豚の丸焼きを運んできた。リンゴをくわえるべきは豚なのに……。一見、滑稽なようで、ひどく倒錯的なエピソードである。かすかに冒瀆のようなものすら感じた憶えがある。たしかに、豚の口にリンゴを嵌めておけば舌がとび出してくる恐れはないだろう。

長時間煮込んだウサギのマスタードクリーム煮は期待に反して煮崩れはなく、頭部は頭部と見てとれた。黒白のくっきりしていた目玉は濁り、ソースの色になじんで強烈さは薄まったものの、食べる気は起きない。当初の目的だった新じゃがはこころおきなく食べられたが、ウサギの頭はいま冷凍庫で眠っている。