2017_03_21 Cerisier1

北緯49度の百葉箱13

猫の愛情表現

文・写真=

updated 04.10.2017

子どもの頃、身近に猫はいたから、猫というものを知らないわけではなかったが、まがりなりにも飼い主として一緒に住んでみると、戸惑うことばかりである。

具合が悪いのか、欝なのかと不安になるほど寝てばかりいるし、たまにニャーと鳴かれれば、何か要求しているにちがいないと思い、お腹がへったのか、外に出たいのか、寒いのか、どこか痛いのか、退屈しているのか、とあれこれ考える。そこまでの切迫感はないにしても、赤ん坊に泣かれるときに似た心境だ。

たしかに、寝てばかりなところも、してほしいことを言葉で伝えてくれないところも、猫は赤ん坊に似ているが、猫はやはり猫。とくに愛情表現のしかたには、ズレを感じることが多い。

そもそも猫は笑わない。こちらが頬をゆるめて熱心に笑いかけても、返ってくるのは、ただ真剣なまなざし。冷静に見すえられると、でれでれと笑いすぎて頬の筋肉がこわばっている自分に気づく。

また、無心に見上げてくる猫が可愛くて、思わず四つん這いで顔をすり寄せようとすると、いつも、するりとそっぽを向いて、しっぽをピンと立て、お尻の穴を突きつけられる。たまに、しっぽの先で顔を撫でられることもある。同類同士のつきあいを見れば、お尻を相手の鼻先に向けるのは、友愛のしるしなのだろうと理解はできても、やはり、素直に喜べず、ちょっとせつない。

それから、どうにも不可解な行動がある。例えば、目の前でゆかに仰向けで寝そべって、伸びをするような、信頼しきった姿態を見せるから、撫でる。と、やおら、手首を前足で捕らえられ、歯を立ててかぶりつき、さらには、後ろ足でタタタタっと連打されるのだ。めいっぱい開いた口が、獲物に食らいつく蛇を思わせ、なにか死にもの狂いの形相をする。爪と牙から身を守るため、あわてて袖を手が隠れるくらいにおろすものの、手首は傷だらけだ。どう考えても、悪意あっての攻撃とはちがうような気がするし、じゃれているつもりなのだろうか、それにしては痛いし、何なのだろうと疑問だった。

それが先日、『猫語の教科書』(ポール・ギャリコ著、灰島かり訳)のなかで、同じ行動について書かれているのに出くわした。牝猫が語り手のこの本は、若い猫たちに人間との賢い暮らし方を伝授する指南書という体裁をとっている。人間との愛のやりとりについて語るくだりで、こうあったのだ。
「ときには猫の気分がたかまるあまり、相手を前足で押さえて、後ろ足でけって、歯をたててかみついてしまうこともあります」

まさにわたしが猫にされている行為である。ごく一般に、猫に観察される行動らしいとわかって、感心してしまった。そして飼い主によっては、やはり愛しさあまっての行為と理解されているようだ。

というのも、語り手が猫でも書き手は人間、もっと言えば男性作家だから、猫が飼い主について語るとき、おのずと飼い主としての書き手の姿が想像されてくるのだ。猫への献身ぶりは自虐的ですらあり悲哀をおび、そして、人間の都合のよさのようなものも垣間見えて、すこし身につまされる。先の引用は、こう続く。

「なぜって、猫はこういうふうにするんですもん。特に、えっと、セクシーな気分のときには」

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