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散歩の凡人04 有楽町編その一

有楽町で逢いましょう

文・写真=

updated 05.25.2014

フランク永井に特別な思い入れがあるわけではないし、「有楽町で逢いましょう」を口ずさむような世代でもない。なにしろこの歌が発売されたのは1957年(昭和32年)なのだから、この世に生まれてすらいない。にもかかわらず、なんとなく知っている、という程度には知っていて、「有楽町で逢いましょう」に限った話ではないけれど、流行歌というものはこうして生きながらえていく。

この曲について、作詞家の阿久悠はこう記した。

 

「ぼくがこの歌を愛するのは、都会を感じたからである。最初はその心地よさの理由がわからなかったが、やがて、日本の歌にこびりついていた土の匂い、故郷の匂い、母の匂いがないからだと気づく。

そして、デパートはともかくとして、有楽町から、終戦以来消し去れなかった「ラク町」の暗いイメージを拭き取ったのも、この歌だと思う」(『愛すべき名歌たち〜私的歌謡曲史』、岩波新書、1999年)

 

「デパートはともかくとして」という一節が出てくるのは、この歌が1957年に開業した有楽町そごうのコマーシャルソングだったからだ。知られるように、有楽町そごうは2000年に閉店し、翌2001年ビックカメラ有楽町店となった。2014年現在、建物の6階まではビックカメラ、7階から9階まではよみうりホール、8階には角川シネマ有楽町が入っている。

この読売会館を設計したのは村野藤吾(1891−1984)。モダニズムとは一定の距離をおき、ときには「和風」すら大胆に採り入れたこの建築家には、ここ十年ほどで新たな注目が集まっている。ビックカメラのオープンにともない、読売会館は外装も内装も変わってしまったが、こうした改装を醜悪なものと見なすか、建物の解体よりはマシと捉えるか、判断は難しいところだ。しかしながら、建物全体のかたちはいまだ堂々としており、昔のままである。よみうりホールが入っている上層部とのつりあいにも、村野の確固たる美意識を感じる。線路側に面した壁面はなだらかな曲面を描き、優美な印象を受ける。

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改装したとはいえ、当然、躯体はいじれないので、内部はそごうの頃の構造がそのまま残っている。一階と二階の間に吹き抜けらしき空間が設けられていたり、トイレ部分から壁面の型板ガラスが見えたり、建築探偵よろしく、竣工当初の痕跡を探しまわるのも愉しい。ただしこのご時世、店内のあちらこちらに監視カメラが取り付けられている。うっかりすると不審者扱いされる危険性もあるから要注意。凡人はあくまでも凡人らしく、気配を消し、目立たぬように行動しなければならない。

そごうからビックカメラへ、つまり百貨店から量販店への移行は、時代の変化を如実に示している、などと思ってはみたものの、2011年には有楽町阪急が全面改装し、阪急MEN’S TOKYOがオープンしたのだから、実のところ小売業界の動向はよくわからない。いずれにしても阿久悠のいう「『ラク町』の暗いイメージ」はもはや見当たらない。

ビックカメラの向かい側には有楽町ビルヂングが立っていて、こちらも竣工が1966年となかなか古い物件である。1階に入っている喫茶店「ストーン」も同じ年に開店し、当時のままの姿で営業を続けている。石材をあしらった内装に剣持勇デザインの椅子が並ぶ様子は一見の価値がある。

2階は有楽町スバル座(チケット売り場は1階)。この劇場も昔ながらのロゴタイプを使い続けていて、散歩の凡人の目をいつも楽しませてくれる。スバル座は本邦初のロードショー劇場として1946年に開館。1953年に火災でいったん消失するも、1966年有楽町ビルヂングの完成と同時に再オープンした。「本邦初のロードショー劇場として」という部分はスバル興業の沿革から引いたのだが、蛇足ながら「ロードショー」の意味を説明しておくと、これは東京などの都市部で洋画の先行上映を行うこと。いまは全国一斉公開があたりまえになったから、もしかすると死語かもしれない。

「有楽町で逢いましょう」には「きょうの映画(シネマ)はロードショー」というフレーズがある。この歌詞を書いた佐伯孝夫は、もしかするとスバル座を意識していたのだろうか。もっともレコードが発売された一九五七年は、前述のとおり閉館中で、再オープンはもうすこし先の話だけれども。

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