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散歩の凡人07 東京編その一

東京駅は開業100周年を迎える

文・写真=

updated 07.17.2014

東京駅が営業を開始したのは1914年(大正3年)12月20日のこと。2014年末には開業100周年を迎える。それを寿ぐように、ここ10年ほど駅周辺では大規模な再開発が相次いでいる。不景気などどこ吹く風。商業施設が次々に生まれているのである。丸の内方面では2002年に丸ビル、2007年に新丸ビルが完成した。2013年には東京中央郵便局の改修とともにKITTEが誕生した。八重洲方面に目を向けると、2012年に大丸東京店が大規模なリニューアルを敢行し、昼夜を問わず賑わいを見せている。

東京駅・丸の内駅舎そのものも、2012年、創建当時の姿に保存・復原された。JR東日本によると、「復元」ではなく「復原」という表記を採用した理由は、「現存する建造物について、後世の修理で改造された部分を原型に戻す」という意を込めているからとのこと。

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100年もの歴史を抱えている分、華やかな消費空間の傍らに様々な挿話が潜んでいるのも東京駅ならでは。丸の内駅舎の象徴とも言うべき丸の内ドームでは、行き交う人々が足を止め、ケータイやスマートフォンで八角形の天井を撮影しているが、この多彩なレリーフに彩られた華やかな伽藍には、日本近代の時代精神が刻み込まれている。もともと東京駅はドイツの鉄道技師であるH・ルムシュッテルとF・パルツァーの基本構想をもとに辰野金吾によって設計が進められた建物。干支をモチーフにした和風の意匠なども散りばめられていて、和洋折衷の楽しさが味わえる。というよりも、むしろ近代建築の歴史は絶え間ない和洋折衷の繰り返しだったのではないかという気がしてくる。

丸の内ドームの真下、丸の内南口改札付近では、1921年(大正10年)11月4日、原敬首相が暗殺された。犯人は大塚駅職員だった中岡艮一。犯行現場には「原首相遭難現場」とプレートが掲げられており、こう記されている。

「内閣総理大臣原敬は、京都で開かれる政友会京都支部大会におもむくため、丸の内南口の改札口に向っていた。そのとき、一人の青年が飛び出してきて案内にあたっていた高橋善一駅長(初代)の肩をかすめ、いきなり刃わたり5寸の短刀で原首相の右胸部を刺した」

それからほぼ10年後、東京駅でふたたび襲撃事件が起こった。1930年(昭和5年)11月14日、濱口雄幸首相が狙撃されたのである。同じく現場には「浜口首相遭難現場」というプレートが設置されている。

「内閣総理大臣浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前9時発の特急「つばめ」号の1等車に向ってプラットホームを歩いていた。このとき、一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった」

どちらも不穏な時代を物語るエピソードである。

血塗られた現場を後にして、中央線ホームを目指そう。ここには新幹線をはじめ、東海道線や東北線などの起点を示す0キロ標識が鎮座している。……はずだが、どこにあるのかよくわからない。若い職員に尋ねると、「ええっと、どこだったかなあ」と頼りない表情に。結局、ホーム端にある詰所の扉を開け、古参らしき職員に聞くと、「11号車が止まるあたりです」と即答したのはさすが。

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中央線が発車するのを待ち、レール脇に設置された0キロ標識を眺める。可もなく不可もなくといった風情で何の変哲もない。ごくたまに凡人のような物好きが暇つぶしに詣でるくらいで、普段、乗客は勿論、駅職員ですら気に留めることはないのだろう。0キロ標識の凡々たる佇まいに好感を抱いたのは凡人としての連帯感か。

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続いて5・6番線ホームに向かう。ここには開業当時のホーム支柱が現存している。緑色に塗られているため、これはすぐにわかる。丸の内ドームに比べれば地味ではあるが、やはりここでも装飾に工夫を凝らした100年前の造形をしみじみ堪能したい。

最後にRTOレリーフを眺めて、東京駅探索をおしまいにしよう。RTOレリーフとは進駐軍専用の待合室に飾られていた石膏レリーフで、2012年、60年ぶりに一般公開されたという代物である。東海道、国立公園など日本の名所旧跡、そして日本地図を象っており、現在は京葉線乗り場付近の連絡通路に掲げられている。進駐軍が鉄道輸送事務所(Railway Transportation Office)を設置したのは1945年9月。説明書きによると、運輸省の建築技術者たちが進駐軍の目を驚かす意匠を施せないだろうかと一念発起し、急遽レリーフをつくったのだそう。

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図案と総監修を担当したのは建築家の中村順平。制作したのは本郷新、田畑一作、建畠覚造、白井謙二郎、北地莞爾、中野四郎など彫刻家の面々。RTOレリーフは進駐軍、つまり外国人の目を意識したものだから、ことさら日本を強調した意匠のようにも見える。おまけに地図上の地名はアルファベットで記されているから、日本人が手がけたにもかかわらず、エキゾティックな香りも漂っている。こうなってくると、和魂洋才というより洋魂和才と呼びたくなる。

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蛇足ながら、旧国鉄が個人旅行の需要拡大を目指し、一大キャンペーン「ディスカヴァー・ジャパン」を展開したのは1970年以降のこと。1984年には後続の「エキゾチック・ジャパン」がスタート。このときキャンペーンソング「2億4千万の瞳〜エキゾチック・ジャパン」(作詞:売野雅勇、作曲・編曲:井上大輔)を歌ったのは郷ひろみであった。出逢いは億千万の胸騒ぎ……。

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