sanpo_UGUISU_01_01

散歩の凡人22 鶯谷その一

ラブホと寿老人

文・写真=

updated 05.18.2015

いつ来ても鶯谷の駅前は閑散としている。上野駅からたった一駅しか離れていないのに、上野の賑わいとはまるで関係がないような顔つきである。ものの本によると鶯谷駅の乗車人員は山手線で一番少ないらしい。JR東日本が発表した乗車人員のデータ(2013年度)を見てみると、最も多いのが新宿駅で、1日平均おおよそ75万人。上野駅はおおよそ18万人。そして鶯谷駅はというと、データを追っても追ってもなかなか駅名が出てこないため、何度も見返してしまったが、ようやく見つかった。1日平均24481人とのことである。たしかに一番少ない。

sanpo_UGUISU_01_06

 

南口の小さなロータリーではタクシーが客待ちをしている。傍らの蕎麦屋は、なんとなく気になりつつも、一度も入ったことはない。ロータリーから線路を跨ぎ、根岸方面へ下るかたちで新坂跨線橋がかかっているが、橋の上からは山手線を含め、13本の線路が確認できる。手すりの真下を電車が通りすぎるから、上からのぞきこむとスリル満点である。跨線橋を渡り終えると左手はラブホテル街となる。

sanpo_UGUISU_01_02

 

金益見『性愛空間の文化史〜「連れ込み宿」から「ラブホ」まで』(ミネルヴァ書房、2012年)は、戦後日本でラブホテルがどのような変遷を遂げたかを追った研究書である。図版資料として昔の新聞広告が沢山載っており、学術書であるにもかかわらず、読物としてもなかなか楽しいつくり。なかに「鶯谷ホテル街の成り立ち」という箇所があり、鶯谷でラブホテルを経営する人物2名への聞き取り調査が掲載されている(2010年7月にインタビューを行ったとのこと)。金によるまとめはこうだ。

鶯谷にホテル街ができたのは『繁華街ではないけれど繁華街から近く、周辺に大きなキャバレーがあった』という場所柄によるものだというところが大きい。利用客が多かったため、地元民が転業してホテル業を始めたという形が多いということも特徴のひとつである。(『性愛空間の文化史』より)

sanpo_UGUISU_01_03

地元民が転業してホテル業を始めた、というのは、具体的には「インク屋をやってたとか、万年筆屋をやってたとか、下駄屋をやってたとか、全く違う商売をやってた人が、旅館やホテルに転業したという形が一番多いです。そっちの方が儲かりそうという理由で」とのこと。1950年代頃の話である。そういえば相米慎二が監督したにっかつロマンポルノに『ラブホテル』(1985年)という名品があるが、残念ながらロケ地は鶯谷ではなく渋谷である。

なお、証言によると鶯谷には「赤坂の『みかど』に匹敵するような大きいキャバレーが二軒あった」そうだが、このうちひとつは、2000年東京キネマ倶楽部に生まれ変わった。凡人は3回ほど足を運んだことがある。EGO-WRAPPIN’、ギャランティーク和恵、菊地成孔ダブ・セクステットのライブである。皆、グランドキャバレーの内装を活かした蠱惑的な空間によく似合っていた。

sanpo_UGUISU_01_05

 

ラブホ街をうろうろしていると60代くらいの男性と40代くらいの女性が腕を組みながら歩いており、二人とも満面の笑みを浮かべていたが、愛人同士なのか、それともデリヘル嬢とその客なのか。そのまま歩いて行くと、すぐ北口に出た。やはり鶯谷は小さな駅なのである。駅前には信濃路という定食屋と大弘軒という中華料理屋があり、信濃路の上には何やら神社仏閣が鎮座している様子。腹が減ったので、お参りは後回しにして、ひとまず大弘軒で中華丼を食べる。650円。

定食屋の上にあるのは元三島神社である。というのは後日わかったことで、情けないことにこの日は満腹になった途端、神社のことを失念したのだった。凡人は性欲を満たす街で食欲を満たしてしまったのである。境内には寿老人も祀られ、下谷七福神のひとつに数えられているそうである。西洋風のイメージを演出しているのか、ラブホの入口にキューピッド像や噴水が設置されていることがあるけれど、たまには日本風に寿老人や弁天様を配してもよいのではないか、と思わないでもない。

sanpo_UGUISU_01_04