神田須田町の味の三角地帯は、昭和の面影をいまだに残しているが、反面、その目と鼻の先にある万世橋付近に関しては、都内各所の例に漏れず、再開発が進む。中央本線の高架下には、かつて交通博物館があったが、惜しまれつつ2006年に閉鎖。翌2007年には場所を大宮に移し、鉄道博物館として再生した。そちらも充実した展示で多くの鉄道ファンから愛されている。
では、交通博物館の跡地はいまどうなっているのかというと、「マーチエキュート神田万世橋」として生まれ変わったのである。これはJR東日本ステーションリテイリングが運営する商業施設で、いわゆる“エキナカ”的なものがおしなべてそうであるように、20代から30代あたりの女性向けと思しき店がずらり並んでいる。つまり、凡人のような中年男性にとっては、とりたてて用事もないし、仮に足を踏み入れたとしても、周囲から浮いてしまうだけである。といって、早々に立ち去ってはいけない。なぜなら、華やかな商業空間のそこここに、かつて存在した万世橋駅の記憶が埋め込まれているからだ。
と知ったふうなことを書いたが、凡人がそれに気づいたのは、マーチエキュート内の「LIBRARY」というギャラリーで、『神田万世橋まち図鑑』(フリックスタジオ)なる案内書を手に入れたからである。これはマーチエキュートの成り立ちを軸に、万世橋の近現代史を辿ろうという良書である。よって以下の記述に関しては、全面的に同書に拠る。 そもそも万世橋駅とは何か。初代の駅舎が誕生したのは1912年(明治45年)。中央線の起点/終点として開通したが、1914年(大正3年)には東京駅が開業し、ターミナル駅としての役目を譲り渡してしまう。というよりも、もとから過渡的なものと考えられていたようだ。その後、関東大震災で建物が倒壊したため、1925年(大正14年)に2代目駅舎が誕生。当時の写真や絵葉書を見ると、駅前広場には雄々しい立像がすっくとそびえ立っているが、これは日露戦争で軍神と讃えられた広瀬武夫中佐の銅像であるらしい。また、道路を行き交う市電の賑わいも写し取られていて、なかなか楽しい光景である。1936年(昭和11年)には交通博物館の前身、鉄道博物館が開業。これは鉄筋コンクリート3階建てで、3代目駅舎は建物の一部として組み込まれていたそうである。
現在では、もちろん万世橋駅などは存在しないし、駅舎も残っていない。何が残っているかというと、レンガ造りのアーチである。これは建築物というよりも構造と呼んだ方が正しい。かつてはレンガアーチの上に万世橋駅のプラットホームが位置していたが、この遺構を商業空間としてリノベーションしたのがマーチエキュート神田万世橋というわけだ。
万世橋駅の記憶が埋め込まれていると書いたが、『神田万世橋まち図鑑』には建築ツアーと称して37箇所もの見どころが紹介されている。秘密基地めいた階段、鈍い輝きを放つ白磁タイル、時間の推移を否応なく感じさせるプラットホームの基礎部分、「まんせいばし」という駅名プレート……等々、建築マニアや鉄道マニアは同書を購入したうえで、逐一確認していただきたい。
マニアでも何でもない人々には「N3331」での休憩をおすすめする。というのも、ここはレンガアーチの上部、つまりかつてのプラットフォームと同じ場所で営業しているカフェなのである。ガラス越しに行き交う中央線を、至近距離から眺めることができるという意味で、驚くべきスペクタクルが味わえる場所なのだ。鉄道好きの子供は大喜びするに違いない。いや、子供だけでなく、おそらく大人も。原田知世主演の『天国にいちばん近い島』というおとぎ話のような映画があったが、それをもじって言うなら、ここは電車にいちばん近いカフェである。