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散歩の凡人23 鶯谷その二

明治27年、正岡子規は中村不折と出会った

文・写真=

updated 05.25.2015

以前、所用で鶯谷を訪ねた際、この地に正岡子規の住んでいた家が残されていることを知った。機会があれば一度足を運んでみたいと考えていたから、今日は子規庵に向かうとする。途中、風情のある建物が見えてきて、看板に笹乃雪と書かれている。ここは聞いたことがある。豆腐料理の名店ではないか。

元禄四年(約三百十五年前)上野の宮様(百十一代後西天皇の親王)のお供をして京より江戸に移り、江戸で初めて絹ごし豆富を作り根岸に豆富茶屋を開いたのが当店の始まりです。宮様は当店の豆富をことのほか好まれ「雪の上に積もりし雪の如き美しさよ」と賞賛され、「笹乃雪」と名づけ、それを屋号といたしました。その時賜りました看板は今も店内に掲げてございます。(笹乃雪ホームページより)

うっかり駅前で中華丼を食べてしまったが、せっかく子規庵を訪ねるのだから、こういう子規ゆかりの店で昼飯を食べればよかった、と後悔したところで、後の祭りである。

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笹乃雪の角を歩いていくと荻の湯という看板が出ている。銭湯の脇から路地裏に入ると、駅前ほど派手派手しくはないものの、またしてもラブホ街となり、その一角に古い日本家屋が建っている。正岡子規が病没するまで暮らしていた子規庵である。関東大震災の影響で建て替えたり、戦時中の空襲で焼け落ちたりで、存命時の建物は残っていない。現在の子規庵は、1950年(昭和25年)寒川鼠骨などの尽力によって再建されたものである。それでもすでに60年以上が過ぎている。運営は一般財団法人子規庵保存会。

河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫)に子規の妹・律への聞き書きが収められていて、ここに昔の間取り図も載っている。この間取り図と現在の子規庵を見比べると、ほとんど変わっていないことがわかる。晩年の子規は病気を患い、庭に面した6畳間で寝起きする生活を送っていたが、ガラス窓からは子規のお気に入りだった糸瓜も見える。絶筆として伝えられる3つの句には、いずれも糸瓜の語が織り込まれている。糸瓜を眺めながら、しばしぼんやりする。

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庭に下り、勝手口ではないけれど、入口とは別のところにある出口を開けると、目の前にラブホテルの案内板がある。ホテルシーズ。サービスタイム。3時間制。根岸的なるものとラブホ的なるものの目に見えないせめぎあい。この景色を子規ならどう詠んだであろうか。凡人に句作の才能があれば、子規の教えにならい簡潔に写生したのであるが、残念。

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ぐるりと回って再び子規庵の入口に戻る。向かい側には台東区立書道博物館がある。1936年(昭和11年)に中村不折の個人コレクションとしてスタート。1995年(平成7年)中村家から台東区に寄贈され、2000年(平成12年)に現在のかたちとなった。 中村不折は洋画家であり書家である。ドナルド・キーン『正岡子規』(新潮社、2012年)には「中村不折は、今日ではほとんど忘れられている。不折の代表作は、それを所蔵している美術館でも展示されることが稀で」と心細いことが記されている。かく言う凡人も不折について多くは知らない。なにしろこの博物館の中の中村不折記念室で、今回初めて不折の洋画を目にしたくらいなのだから。洋画には心惹かれなかったものの、書に関してはいま見ても新鮮なものがいくつかあり、なかでも「龍眠帖」(1908年)はリズミカルな筆致が目を引く。同館の説明書きから引く。

「龍眠帖」は、不折が療養のため礒部温泉へ来ている際に、いわばリハビリの一環として書かれたものである。「龍眠帖」に書かれている詩は、蘇轍が龍眠山の二十の場景をそれぞれ五言絶句で詠んだもので、計二十首からなる。この書を河東碧梧桐に見せたところ、出版を強く勧められた。そして世に出るやいなや、たちまち売り切れとなり、当時の書道界の大きな話題をさらった。

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「龍眠帖」を推した碧梧桐は、高浜虚子と並ぶ子規の一番弟子だが、次第に五七五の定型から離れ、自由律俳句へ移行する。「龍眠帖」の独特の書法も伸びやかで、自由闊達という点では自由律俳句と響きあうものがある。龍眠山がどういう山だか知らないが、筆の運びはごつごつした岩山を連想させるではないか。凡人は俳句に詳しいわけでも書に詳しいわけでもないから、無論これはただの思いつきに過ぎない。

碧梧桐の師である正岡子規と中村不折が出会ったのは1894年(明治27年)。新聞「小日本」掲載の記事に不折の挿絵を組み合わせたことがきっかけである。再びドナルド・キーン『正岡子規』によれば「子規は、写生の方法を自分の俳句の手本となる原理として取り入れ」た。俳句における写生の概念は、西洋画の基礎、つまり写生を学んだ不折によってもたらされたのである。近代俳句の奥底に「西洋」や「絵画」が眠っている。

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