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散歩の凡人06 有楽町編その三

ミルクワンタンのほうへ

文・写真=

updated 06.16.2014

「有楽町で逢いましょう」について、阿久悠は「終戦以来消し去れなかった「ラク町」の暗いイメージを拭き取った」と評した。そもそもの話、「ラク町」の暗いイメージとはどこから来たものなのか。

1945年に第二次世界大戦/太平洋戦争が終わり、日本はGHQ(連合国軍総司令部)の占領下に置かれる。日比谷にある旧第一生命館(現DNタワー21)は接収され、GHQ本部が設置された。現在でもマッカーサー総司令官室が保存されているそうだが、一般公開していないため内部を見たことはない。

こうして有楽町は占領地となり、進駐軍を対象とする街娼、いわゆるパンパンが立つようになった。菊池章子「星の流れに」(1947)は、身を売る女性たちの姿を素描した哀しい歌だ。ガード下では闇物資のやりとりも行われていた。闇市である。阿久悠のいう暗いイメージとは、とどのつまり、戦後の混乱期を体現した街のありようを指している。

現在、有楽町の近辺に街娼は立っていないし、闇市も存在しない。しかし「「ラク町」の暗いイメージ」の痕跡はわずかだが残っている。有楽町高架下センター商店会はその最たるものだろう。夕方になれば多少の人出もあるが、やはり駅前の賑わいに比べると侘しい雰囲気を湛えているのは致し方ない。

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東京駅方面に抜ける薄暗い通路を進んでいくと、台湾料理屋「新台北」が見えてくる。その隣でひっそりと営業しているのが「鳥藤」だ。いま、迂闊にも「ひっそりと営業している」と書いたが、ここはミルクワンタンを供することで有名な店である。

店の前には「ミルクワンタン」という看板が掲げられている。ミルクワンタンとはいったい何だろうか。ワンタンをミルクに浸したものだろう、という程度の想像はつく。初めてこの単語を目にしたときは、疑問符とともに、ミルクとワンタンの取り合わせという魅惑に満ちたイメージが浮かんだものだ。

簡にして要を得ているので、『吉田類の酒場放浪記』(株式会社TBSサービス、2009、取材執筆は吉田慎治)から引用する。

 

「『鳥藤』が有楽町駅前のすし屋横丁で営業していた戦後間もない時代、当時統制されていた米の代わりに「何か栄養のつく食べ物を」と、初代が戦時中にシベリアで食べたボルシチをヒントに考案したメニュー。ゆでたワンタンに塩味をきかせたミルクを注ぎ、たっぷりの野菜とともに煮込んだ鶏のモツ煮とアサツキをトッピングした、創業当初からの名物である」

 

席につくとしょっぱなに「何を飲みます?」と尋ねられるが、その後は注文せずとも次々に料理が出てくる。こういうやり方になった理由を尋ねたところ、「お客さんから注文を受けて、いちいちそれに応えるのは面倒くさいから」との答えが返ってきた。明快さが素晴らしい。

この日のメニューを書き出すと、スープ、胡瓜の漬物、おでん、冷奴、モツ煮、焼魚、サラダ、納豆炒飯、沢庵と梅干、ミルクワンタンという流れで、だいたいのところ、毎回こんなような調子である。酒のつまみとしてはけっこうな量だし、そもそも凡人は小食なので腹一杯になってしまう。

店の構えは古く、それに見合うようなくたびれた中高年のお客さん(失礼)もいるにはいるが、他方、いかにも女子会といった雰囲気を漂わせた女性たちが華やいだ声をあげたり、若いサラリーマン同士がビールを注ぎあっている光景も見られる。

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店内のあちらこちらにカレンダーが貼られているのは、きっと常連からの貰い物なのだろう。カウンターの脇には昭和20年代の地図が掲げられていて、おそらくこの地図が製作されたのと同じ時期に鳥藤は営業を始めたのだ。地図を眺めながら往時の東京を想像しているうちに、だんだん酔いが回ってきた。そろそろ会計してもらおう。

ついでながら、線路の反対側は東京国際フォーラムに面していることもあり、だいぶ開放感がある。小洒落た雰囲気の店も多く、こちら側に比べると(?)安心して飲み食いできる空気が漂っている。参考までに凡人のお気に入りは、立ち食いスタイルの寿司屋「立鮨葵」である。